小島信夫『残光』と保坂和志『残響』を再読。

ハンさんの記事に、小島信夫の『残響』を読んでみたいな話が出たときに、『残響』は保坂和志で、それを言うなら『残光』でしょみたいなくだりがある。

取材時にそんな話が出たもんだから、その2つの作品を再読してみた。

目次

小島信夫『残光』を再読

『残光』はあらすじみたいなものを説明するのが難しい作品で(小島信夫の作品全般的にいえることなんだけど)、ひとまず「BOOK」データベースの紹介文を引用する。

小島信夫『残光』 「BOOK」データベースより

妻よ! 小説よ! 文学の最前線を走りつづけてきた作家の、残光に照らされた「いま」の輝き。九十歳の最新長篇。

ほとんど中身に触れられていないし、なんのこっちゃわからない。

じゃ、十全に中身をお話したらなんとなくわかるのかというと、どうもそんな気もしない、そんな作品。

『残光』じゃなく『菅野満子の手紙』の一節だった

ハンさんの記事の中で、ハンさんが小島信夫『残光』の中に、以下のような挿話があったという話をしている。

小島信夫とおぼしき主人公が、奥さんが元気だった頃、自宅周辺を散歩する。そのときは、一緒にいても一人で歩いているような感じだけど、奥さんが亡くなった後、一人で同じ道を歩いたときに、初めて奥さんの存在が浮かび上がってくるというか、二人で歩いているような感覚に捉われる。

「もしかしたら他の作品で間違ってるかもしれないけれど」とご本人もいってたけど、再読した結果、そんな感じの文章は出てこなかった。


ただ、『残光』には小島信夫本人とおぼしき人物が出てきて、身辺雑記的に直近で起こった出来事が記されるとともに、過去の自作に対してところどころで言及される。

んで、2005年7月に実際に行われた保坂和志との対談イベントの様子も作中に出てくる。この対談は界隈で話題になったやつで、wikipediaにも載ってたので引用すると、

2005年7月および2006年3月の二度にわたり、保坂和志との対談イベントが企画され、会場に集まった多くの聴衆を時おり爆笑に誘う独特の語りをみせた。会場には、英米文学者の山崎勉や枡野浩一、茂木健一郎、柴崎友香や長嶋有、映画監督の長崎俊一など、一般の読者や出版関係者以外にも大勢が来場した。

出典:wikipedia

というもので、上でも書いたように、このイベントの様子が『残光』の中にも出てくる。


で、そのイベントで保坂和志が小島信夫の『菅野満子の手紙』の中の一節を引用している。その箇所が記された『残光』の中の一節を引用する。

保坂 こんな箇所があります。奥さんと二人で山にハイキングに行く。軽井沢の別荘から浅間山に向かって歩く。台風のあとなので、初めての道を通ってみたけれど、このルートは退屈だなというようなことを言っている。そのとき、「彼は妻があとからついてきているのを忘れそうになった。彼女は何分も黙っていた。ときどき彼はスロープを見あげて行先きをすこしみて早く明るいところへ出ないかと思った。ひとり歩くより、二人で歩く方が何かしら気が重いと思った。ふりむくとぴったりと彼のあとにくっついていた。あまりそばにいるので、まるで自分ひとりでいるようにさえ思えた」。

 そうすると奥さんが、「『あなた何を思ったか分かるわ』彼女は彼の腰を叩いて休む合図を送った。『こんな中途半端なところで休みたくないけど、あなたのために休むことにするわ』『ぼくも、分かるさ』『わたし、ひとりのような気がしていた。だからあなたもそうだと思うわ。きっと、ひとりでのぼっていると、二人でいるような気がするかもしれないわ。これが理想なのかもしれないわ』(中略)


出典:小島信夫『残光』

ハンさんが一読して印象に残ったといって紹介してくれた、

「奥さんが亡くなった後、一人で同じ道を歩いたときに、初めて奥さんの存在が浮かび上がってくるというか、二人で歩いているような感覚に捉われる」

なんて記述はなかったんだけど、比較的その内容に近いと思われる箇所が、上で引用したところだ。


共通点として、

  • 男女二人が歩いている(散歩とハイキング)
  • 二人でいるんだけど、「自分ひとりでいるようようにさえ思え」る
  • 逆に、一人でいるときも二人でいるよう気がするかもしれないと思う

ってことが挙げられ、たぶんこれだと思う、ハンさんがいってたのは。

つまり、『残光』にあったのはあったけど、それは『残光』のなかに出てくる小島信夫×保坂和志の対談(実際に行われたやつ)の中で引用された小島信夫の『菅野満子の手紙』の一節だった。


だからなんやねん、というとまあ、特に何もないんだけど、久しぶりに『残光』を読んだらけっこうおもしろかった。

保坂和志『残響』も再読してみた

ついでといってはなんだけど、保坂和志『残響』も再読してみた。

同文庫には表題作の「残響」と「コーリング」が収録されている。


同文庫の解説(石川忠司)の冒頭を引用してみる。

 本書『残響』の中で、登場人物たちはしきりに時間的・空間的に隔てられた者どうしの交歓もしくはコミュニケーションの可能性について考える。大泉学園の借家に夫の啓司と一緒に引っ越してきたゆかりは、そこに住んでいた「前の人」はどんな人で今はどうしているのだろうと何かにつけて思いをめぐらしてやまない。また、その当の「前の人」である野瀬俊夫は妻の彩子と別れたばっかりで、ひとり喫茶店で外の風景を眺めながら、人間が見たり考えたことが熱となって空気中に拡散しないでこの世に記録されることはあるのかとか考えているのだが、この問いの真意は保坂和志自身が別の場所でより明確なかたちで言い直していて、それは次の通り。

「ある場所である人がかつていろいろなことを感じたり考えたりしたことを、神秘主義やロマンチックな空想でなく、物質的に確かめることは可能なのだろうか。」(チェーホフの問い、十代のせつなさ)

 そして堀井早夜香は、自分がかついての会社の同僚だった渡辺彩子を思い出しているとき、果たしてこの思いは彼女に伝わるのかと考える。(以下略)

要は、部屋に一人いるとき、ふと誰かのことを考えた際に、その「考えた」相手は自分のことを考えてたりするのだろうか?といった事例を持ち出すと、

なんかそれだと恋愛の物思いにふける感じのイメージが先行しそうだけど、まあわかりやすくいうとそんな感じ(でも、恋愛を主眼とした小説ではもちろんない)。


で、作品について自分なりにいろいろ書こうと思ってたんだけどやっぱり止めることにして、それは面倒になったからなのかというとそういうことではなくて、いまこの記事を書いているのが再読してからもけっこうな時間がたってしまって、読み返さないと細かいところがわからなくなってしまっているからだ。

(メモとっとかないとダメですね。そういういう意味では、広義には「面倒になったから」ともいえる)


というわけで、石川忠司の文庫本解説を引用してきてお茶を濁しておくことにした。

本筋とはズレるけど、石川忠司はいま何をしてるんだろう?と思ってググってみたら、東北芸術工科大学の教授になっていた(しかも文芸学科長!)。

「コーリング」はクラッシュの「ロンドンコーリング」?

見出しに書いたけど、どっかで保坂さんが「コーリングはクラッシュからとったんだよね」みたいなことを書いてたか言ってたかした記憶があるんだけど、もしかしたら間違っているかもしれない。


お話はどんなだったか全然忘れてたけど、タイトルになっている「コーリング」は小説内に出てくる企業の名前だった。

(特定の主人公らしい主人公がいないんだけど、登場人物たちが通っていたり、元通っていた会社だったりするのが東京コーリング人材開発派遣センタアで、その略称)


コーリングが人材派遣会社の名前になっているから、「呼ばれる」的な意味からネーミングされたのかと思ったりしたら、そこらあたりへの言及が小説のなかでもされていて、

「コーリング」には、「職業」とか「天職」という意味があることを美緒は辞める直前に浩二から教わったが、美緒だけでなくたいていみんな意味なんか知らなくて、電話の「コール」のことだと思っていたり、それが転じて「仕事のお呼びがかかる」ことだと思っていたりした(誰だったか、「コーリング」というのは「衝動」のことで、だから「働きたい衝動」だと言った人もいた)。

出典:保坂和志「コーリング」

ということで、「コーリング」からクラッシュを連想していたところへ「衝動」とかいわれると、ファーストアルバムの『白い暴動(The Clash)』を思い浮かべたりもするけどあくまでこっちが勝手にそう思っただけで、ぜんぜん関係ないのかもしれない。

ちまみに、本家のといかクラッシュの「ロンドン・コーリング」は、BBCが第二次大戦中に占領地向け放送で使用した「こちらロンドン (This is London calling …)」にちなむそうです。

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「コーリング」のタイトルのなれそめ

 土井浩二が三年前に別れた美緒の夢の途中で目が覚めた朝、美緒はもちろん浩二の夢など見ていなかったし思い出しもしていなかった。

出典:保坂和志「コーリング」

これが「コーリング」の冒頭で、この書き出しからもわかるように、「残響」同様、「時間的・空間的に隔てられた者どうしの交歓もしくはコミュニケーションの可能性について考える」ような小説になっている。

主な登場人物は、美緒、浩二、恵子で、彼女たちが何かしら相手のことを思い出したりして、各シークエンスがつながっていく。


んで、もっとちゃんとした感想みたいなのを書こうかなと考えてたけど、「残響」同様、再読してからも少し経ってしまい、大雑把なことくらいしかいえない感じなのであえて何もいわず、これくらいにしてごまかしておきます。

その代わりといってはなんだけど、探したら「コーリング」に関する保坂さん自身が書いた文章が出てきたので、引用しておきます(めちゃ長かったので、タイトルに関するところだけ)。

(前略)では、「コーリング」という言葉がどういう風にして浮かんだのかと言うと、友達の映画監督の長崎俊一がかつて『ロンドン・コーリング』というタイトルの映画を撮ったことがあったからで、長崎のそのタイトルはクラッシュというバンドの『ロンドン・コーリング』というアルバムからもらったものだが、「コーリング」という言葉を思いついて、長崎に「ロンドン・コーリング」の意味を問い合わせてみると、「おれもよくは知らないけど、第二次世界大戦中にロンドンが空襲されたときに、ロンドンのラジオ局か何かが世界に向かって発信した有名なフレーズらしいよ」という返事で、まあそれだけでもじゅうぶんだったのだけれど、英和辞典を引いてみると、「強い衝動」「転職・職業」というあまりにもうってつけの意味が書かれていて、私は再びガッツポーズをした。


 と、こんな裏話を知ると、『コーリング』の完成形しか知らない読者は「まさか」と思うと思う。しかも「コーリング」と決めてから直しというか統合というか、そういう作業に2日しかかけていない。つまり、『コーリング』という小説は、「コーリング」という題名を当てはめるべき空項のようにして待っていた、ということなんじゃないか。とまで言ったら言い過ぎだろうか。ついでに言っておくと、『バグダッド・カフェ』で流れる曲が『コーリング・ユー』で、「それから来たんじゃないか」と想像した人が何人かいたけれど、私はまったくそれは考えなかった。『バグダッド・カフェ』は大好きで、「『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のあとに来るのが『バグダッド・カフェ』で、そのあとに来る映画はいまのところない」なんて吹聴して、いまでもその気持ちは変わっていないけれど、とにかく『コーリング・ユー』のことはまったく考えなかった。――しかし、『コーリング』を読みながら、『ロンドン・コーリング』を多少なりともイメージするのと、『コーリング・ユー』をイメージするのとでは、読みながらの感じかたがかなり違ってくるのではないだろうか。クラッシュというバンドはパンクのバンドで、ヴォーカルのジョー・ストラマーは、アキ・カウリスマキの『コントラクト・キラー』の中で場末(?)の店で一人でギターで歌っていた。

やっぱり、クラッシュがかかわってた。けど、これ読むと、タイトルありきで作品がつくらたのではなくて、完成後にタイトルがついたから、偶然というか、もともと意図したものではないことがわかる。

てか、『どっかで保坂さんが「コーリングはクラッシュからとったんだよね」みたいなことを書いてたか言ってたかした記憶がある』と書いたけど、まさにこの文章を昔に読んでて、そう思っていたのかもしれない。

さいごに

感想の詳細は書かないといいつつ、ふとコーリングに女子高生と電車に乗り合わせたシーンがあって(ポケベルで3341がさみしいで、6741がむなしいで、072がオナニーだみたいなことを話している)、ホームに降りたときに、「(きれいな方が)下を向いてしなやかな手つきで髪を左右に分けてホームに唾を吐いた」ってシーンがあったことを思い出す。

だから何ってこともないし、このシーンがいいとか悪いとかでもないんだけど、こういうシーンを覚えておくのは悪いことではないと思う。


ちなみに、この場面は本当にあったことというか保坂さんが実際に目にしたそうで、

私は彼女たちが「さみしい」「むなしい」という言葉を頻繁に使っているらしいことが、とても印象に残った。ポケベルからあっという間に携帯電話へとツールは変わったけれど、「さみしい」「むなしい」の気分はツールと代が変わっても変わらずにつづいている。

といったことを書いている。


この「ポケベルからあっという間に携帯電話へとツールは変わったけれど」とある文章が書かれたころの「携帯電話」はせいぜいメールができるようになった頃の話で(それでも当時は画期的だった!)、前野健太の「さみいだけ」という歌ができたのもちょうど同じ頃だったと思われる(CDがリリースされたのは少し後だけど)。

ちなみに、いまLINEのトーク画面で「さみしい」と打つと、秋風に吹かれて黄昏れているクマ(ブラウン)や、ズーンと落ち込んでいるウサギなんかが出てくる。


で、話を冒頭に戻すと、ハンさんのインタビューの中に「残光」「残響」が何度が出てきて、でもこうして作品を振り返ってみるとハンさんの話とはつながっているようで全然つながっていないような感じもするだけど、

記事の中ではその「残光」「残響」がいいような感じで機能している感じで(ハンさんはスペインに行った片思いしている女性の残り香のような、いまここにない彼女の存在を求めてカメラを回し(映像作品をつくる)、それが「残光」「残響」と表現される)、つながってないけどけっこういい感じに連動したりしているようにも思ったりするんだけど、どうでしょうか。

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