2016年4月、カンボジアから帰ってきて間もない山本さんの元に、伊藤壇さんから夜中に電話が入る。
すでに日付は越えており、こんな時間に何かなと電話を出たら、「真也さんちょっと、モンゴルで契約の話がある。行くよね?」と伊藤さんが言う。
そこで山本さんは、即答した。
「うん、行く」と。
モンゴル・ナショナルプレミアリーグでプロデビュー
カンボジアから帰ってきてまだ心身は万全ではなく、ケガも治ってないし、やっと練習を再開させ始めたところだった。
なので急な話ではあったが、「行くよね」と言われて、もしここで「明日の朝まで待って」というようなことを言ったら、この契約はなくなると思った。だから即答で、「行く」と答える。
「じゃあ、明日の朝に向こうから契約書送るようにするから、連絡先向こうに教えてもいい?」と伊藤さんが確認し、山本さんが了承したところで電話は切れた。
翌朝、再び壇から連絡が来て、これから契約書を送るからそこにサインして返してって言われて、「真也さんのプレーの動画とかを渡して、それを見て向こうはオッケーっていうことだから。だから決まったから」って。
あ、それはもうトレーニング参加というか、トライアルとかではなくて…もう契約?
うん。びっくりしたんですけど。今までトライアルで散々苦労したんだけど、まあモンゴルのリーグの開幕が近いのもあったけど、条件的に「日本人で、センターバックができて」とかあったみたいで。
僕が(伊藤壇に)預けてたプレー動画とサッカー履歴書をモンゴルのチームに送って、向こうからすぐ返事が来て。この選手と契約したいって。
上手く話が進むときは、そんなもんなんですね。
すぐ連絡が来て、僕も即答したんで。
なるほど、そこで逡巡してるようじゃもう流れちゃってた可能性がある。
大体そうだって言いますね。誰かに相談してからとか言ってると、結果的にダメになるのがわかってたし、そこで夜中に電話がかかってきて「行くよね?」って言われたときに、明日の朝までわずか4、5時間ですけど、その間に話が変わるっていうのは僕も経験してるので。
契約金が、翌日0になったこともあるから。
その辺は伊藤さんはわかってるから、「どうする?」じゃなく「行くよね?」みたいな。
そうですね。僕はチーム名も知らなかったですし。
規約書送られてきて、初めてこういうチームの名前なんだって思って、そのとき調べたくらいですから。それで強いチームなんだ、と思って。
契約を交わし、単身モンゴルへ
正式に契約を交わし、約1週間後にはモンゴルに渡った。
リーグ戦開幕を直前に控え、チームはすでにキャンプに入っているから合流してほしいとのことだった。
ちなみに、契約をしたのはSPファルコンズFCというチームだった。
SPファルコンズFC
モンゴルの首都ウランバートルをホームとするサッカークラブである。(中略)モンゴル・ナショナルプレミアリーグ所属。クラブ名のSPはオーナーであるモンゴルの印刷会社セレンゲ・プレス (Selenge Press) の略称である。2000年にFCセレンゲ・プレスとして設立され、2019年からSPファルコンズに改名した。
出典:wikipedia
契約締結後、あわただしく現地へ飛ぶ準備をし、山本さんは身一つでウランバートルへ。
そして、特に詳しい情報もなく、空港でチームスタッフと待ち合わせることになる。
モンゴルに到着後、明かり一つない真夜中の草原を約3時間車で走る
モンゴルの空港に到着したのは夜の11時くらい。
右も左もわからず、キャリーケースを持ってきょろきょろしていたら、屈強そうな大柄のモンゴル人男性に肩を叩かれる。
二人の男が近づいてきて「ヤマモト?」と言われたので、「Yeah」って答えると、手にしていたキャリーケースをその男性がもらい受け、運ぼうとする。
突然の出来事に、山本さんは「えっ? どうしたらいいんだろう…。いやでも、多分チームの人だよね…?」と動揺しつつ、誘導されるままに車に乗り込む。
後でわかるんですけど、マネージャーとフロントの人とかで。
で、車に乗って行くけど、それこそモンゴルなんで街灯もあるわけないし、車の明かり一つだけで草原をただずーっと走り続けるだけで、「あー、これもしかしたら殺されるかもしれない」って。
このままどこかわからないところに連れてかれるかもしれないみたいな(笑)
それで車で3時間ほど走って、バガノールってキャンプ地についたら、ボス(オーナー)とか監督とかがいて、挨拶行って。
それで日本人の選手もいたんですけど、そいつが「来てくれてありがとうございます」って言って、「あぁ、マジか良かった」って思って。
殺されることもなく、チームに合流できたと(笑)
そして約1週間のキャンプを終え、チームの本拠地であるウランバートルに戻り、間もなく開幕戦を迎える。
ちなみに、現地ではホテル住まい(オーナーが運営する会社の横あるホテル)で、一人部屋ではなく相部屋。
山本さんはナイジェリア人のチームメイトと同室だった。
サッカー選手として、ついにプロのピッチに立つ
開幕戦の相手は、ハーン・フンス・エルチムFC。
モンゴル代表の主力の多くの選手が所属する強豪で、モンゴル・プレミアリーグのチャンピオンチームだ。
そして、山本さん自身、あこがれ続けたプロのピッチに初めて立つ。
ポジションはセンターバック。
- 試合前、ピッチにつながる通路で入場を待つ
- FIFAのアンセムが流れ、入場する
- セレンゲ・プレス ファルコンズFCのサポーターからの大声援
- 試合前のスタンドにモンゴルの首相が来て、国歌が流れる
- そしてフィールド上でキックオフを迎えた瞬間
その一つひとつの場面が、山本さんにとってかけがえのない瞬間だった。
自分の夢がかなった瞬間のなんとも表現できない気持ちでした。ゲーム中だったけど、心から「壇、本当にありがとう」と思いました。
ただ、ゲームは1-3で負けて、感慨深い気持ちなるとともに、外国人枠でチームに在籍している自分の責任の重さも感じました。
「助っ人」として来ているから、当然それなりの結果が求められると。
はい。もっというと、チーム内で圧倒的な存在になってなければダメで、とにかく結果を求められます。
チームが勝たなければ、すぐに別の外国人選手を探す、そんな世界なので。
そういう意味では、山本さんご自身の手応え的にはどうだったんですか?
一応、全試合フル出場していたというのはあるんですけど、とにかく負けられない試合がずっと続くから、練習の時から「自分はチームをどうにかしなきゃいけない」と思ってやっていたというのがありました。
手ごたえというよりはチームに対しての責任感があった感じで。周りの選手にも、ラインの上げ下げとかボールの動かし方とかいろいろ指導して。
コーチじゃないけどそういうこともいろいろサポートされて。
僕はセンターバックでしたけど、まあ日本人が後ろ(のポジション)をやった方がサッカーになるんですよ。
ただ、ファーストステージが終わるときに、「前期でクビだ」って言われて。
えー、フル出場してたのに!?
チームの成績はどうだったんですか?
一応、2位とか3位くらいで、1位のエルチムが飛び抜けてたんですけど、上位には来てました。
手応えはわからないけど、驚きはありました。まあ、でもプロだからしょうがないですね。
突然の解雇通告と、最後に試合での奮闘
ちなみに、山本さんがチームに在籍していたときに、同僚だった日本人選手が大活躍した試合があった。
翌日、ご飯を食べてるときにボス(オーナー)から呼び出しがあり、「ボーナスもらえるんじゃない」とみんなで笑ってたら、戻ってきたくだんの選手は真っ青な顔をしている。
どうしたの?って聞いたら、「俺、今日でクビだって言われた」っていうことがあった。
その人はボランチだったんですけど。モンゴルも長い選手だったし、力あった選手だったけどチームの方針と合わないって。
その前の活躍はわかるけど、うちのチームとして必要ないからお前クビだって。これはモンゴルに限らず、どこの国も1試合でクビになることはあって、だからその分、外国人の選手って圧倒的じゃないとダメで。
本当に厳しい世界なんですね。
僕も(前期最終戦の)8試合目に向けての練習が終わったあと監督に呼ばれて、次のセカンドステージにロシア人の選手採ることになったって言われて。
「あ、そうなんだ」って思ったら、その選手もセンターバックだって言って、「ん?」って思って。そしたら、やっぱりそういうことで。
もうそうなったら、いついつまでに出て行ってくれみたいな感じになるんですか?
そうですね、僕が最後の8試合目終わって、ナーダムっていう向こうのお祭りで中断の期間があるんですけど、ナーダムまでにもうこの部屋出てってくれって。
その監督もずっと使い続けてくれてたし、成績悪くてクビになったわけじゃないから、監督も(解雇の保留を)だいぶ頑張ってくれたんですけど、「これから後期の優勝をめざすためには、もっといい選手を入れないと失点が減らないから」ってコーチに長々説明されました。
山本さん自身はどんな気持ちでした? その時は。
でもこれが、ピッチに立って評価されてる部分と評価されなかった部分の現実だなって思って、やっぱりダメだったからクビなんだなって。仕方ないなって思ったし、そのチームとかプレイしてきたことには未練がない状態でした。
ただクビになったから、プロの選手としてはダメだったけど、また次を何か探さなきゃいけないなとは思ってました。
ちなみに、チームメイトには最後の8試合目が始まる前のミーティングのときに監督から山本さんの退団が発表された。
「ヤマモトが今日で最後だ」と聞いて、チームメイトたちが「絶対に負けられないぞ」と鼓舞してくれたが、前半相手チームに2ゴールを奪われ、0-2で前半を折り返す。
ハーフタイムとかみんなすごかったですよ。「このままじゃ終われねえぞ」って、「これじゃあ山本がかわいそうだ」って言って。
「絶対がんばるぞ」って言ってくれて、2-2までは行きました。結局引き分けでしたけど。
後半、盛り返したんですね。
僕的には、プロとしてはダメだったけどしょうがないなって。
最後の試合勝てなかったっていうのも現実だし、最初の前半2失点したのも別に僕が悪いとかそういうわけじゃないけど(笑)、チームとして失点したわけだからやっぱりそういうことをトレーニングとか今までしっかりしてこれなかった自分が、プロチームの外国人選手として力を発揮できなかったからしょうがないなって。
それが2017年7月のこと。
最初の契約では9月までだったが、途中解雇となり7月の最後の試合が終わったあと、日本に帰国する。
モンゴルサッカーのレベルについて
山本さんがサッカーのモンゴルリーグ1部「FCセレンゲ・プレス」と契約した際、プロ経験なしの43歳の元教員が夢をかなえた!とスポーツ新聞に報じられ、ヤフーニュースにもなった。
そのときにコメント欄にあった話題のひとつが「モンゴルサッカーのレベル」で、モンゴルのFIFAランキングも低いし、日本でいったらJFL(日本フットボールリーグ=アマチュアリーグの最高峰)レベルだろとか、書かれたりしたという。
日本代表とモンゴル代表でやったら、10点差以上の試合になるくらいの力しかないと思うけど、行けばわかりますけど、みんな背がでっかくて、パワーあって、足速くて、もうガツガツなんです。
フィジカルがすごいと。
はい。たしかに、モンゴルのサッカーと聞いて一般的にはピンと来ないと思いますが、行ってみて現地の選手のすごさを実感しました。
チームメイトのモンゴル人はみんな若かったですし。
そういう意味では、さっきもちょっとお話があったけど、山本さんはセンターバックで守備のラインをコントロールしたり、試合・練習を問わずベテランとして指導的なこともされてたりしたんですか?
そうですね。ハードワークも元々できる国だから、それを生かすためには「ちゃんとここでボール取った方がいい」とか、「ボール奪う位置を高くして、そこからゴールに向かう時間を短くした方が得点の確率が高いから、じゃあどうしよう」とか、チームメイトにはいろいろ話しました。
ちなみにチームスタッフはモンゴル人が中心で、監督ももちろんモンゴル人(その息子もチームに所属していた)。
年齢は山本さんの1つ上で、すごく仲が良かったというか、可愛がってもらっていたという。
なんか事あるごとに、練習終わったら「車に乗れ」って言われて家連れて行かれて、ご飯食べに連れて行ってもらって。
めちゃ仲良しじゃないですか。モンゴル料理みたいなのが出てくるんですか?
みたいなのもあったし、普通のお米も出てたし、手巻き寿司のちょっとおいしくない版みたいなのがあったりとか。
あと監督の息子は結婚してて、若夫婦で子供もいたんですけど、子供の誕生日に呼ばれて、「一緒にハッピーバースデー歌え」って言われたりとか。「ケーキ一緒に食べるぞ」って。
そんな家族ぐるみで(笑)。まあ、でも、オーナーの判断で別の外国人選手に取って代われるという…。やっぱプロは厳しい世界ですね。
再起をめざし、同じ年の暮れにバンコクへ
日本に戻ってきた山本さんが、そのとき考えていたのは「次またどっかに行きたい」ということ。
つまり、ケガもしてないし、プレーはできるし、アジアのどこかのプロチームのトライアルを受けたいと考えていた。
ただ、仕事もしないといけないし、、どうしようかなと思ってる時に北海道コンサドーレ札幌(=北海道のプロサッカークラブ)から声をかけていただいて。
ちょうどスクールコーチが足りないからっていう話で、10月かな。10月からスクールコーチとして働きました。
それは対象は小学生とかですか?
小学生です。僕は低学年を受け持ってました。毎日練習があったので、毎日行ってました。
翌年の1月31日までが契約社員で、2月から正社員としてコーチをしていました。
で、その仕事やりながら伊藤さんとかと相談して、次のチャレンジも一応探しつつみたいな。
そうですね。コーチの仕事しつつ、自分のトレーニングもして。
ただ僕の場合は、もう無かったっていうか、実際に40いくつの選手がトライアル受けるチームはもう無かったんですよ。
その年の暮れ(2016年12月)、山本さんは再びタイのバンコクを訪れる。
伊藤壇さんが主宰するチャレンジャス・アジアに参加するためだ。
そして、そのときに「やっぱりダメだな」と自分でも実感し、サッカー選手としての現役引退を決意する。
動きもそうなんですけど、自分のトレーニング状態っていうのもあるけど、それ以上に「自分に需要が絶対にもうないな」っていうのが向こうで生活しながらわかったから、もうそこで現役は引退って。
そこで自分の中で納得が。踏ん切りがついて。
うん。ただただ満足感しかないです。評価って自分がするもんじゃないんで。向こうがしてくれることなんで。僕自身としては、まぁよく頑張ったよねって。
それはすごくこう、温かい気持ちになりましたね。
傍から見たらね、教員辞めてどうのこうのって普通に考えたら反対する人多いと思うんですけど、自分の中ではやっぱチャレンジしてよかったなっていう。
自分のわがままだし、好き勝手やってきた結果なのかもしれないけど、ただ自分で決めて行動してやったことに間違いはなかったなと思えたし。
それには何回も出てきますけど、(伊藤)壇の力があったからできたんだけど、でもここまでサッカーよく頑張ったなって思ったら、何かこう嬉しさ? 自分の最後のキャリアが、プロのサッカー選手だってことは選手として最高だなと思いましたね。
ちなみに、山本さんが真っ先に引退を伝えたのは伊藤壇さんで、そのときに彼が言ったのが「じゃあ、次は選手じゃなくても監督やコーチとしてまたアジアに出ることめざすよね」という一言。
山本さんは、「そりゃそうだね」と答える。
というわけで、山本さんの次の目標がみつかったというか、その夢の実現に向け、新たなチャレンジが始まった。
山本さんの半生part5に続く。
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