Jリーガーになるという目標は実現できず、大学卒業後に生まれ故郷である北海道に戻る。
そして、特別支援学校の教員(体育の先生)として働き出すことになる。
ちなみに、その職場を斡旋してくれたのが仙台大学のOBの方で、その方自身が教員と共に、北海道のサッカーリーグの強豪チームの監督を務めていた。そして、
- そのチームへの入団
- 北海道の国体チームの強化
もお願いできないか、と口説かれ、「サッカーができるんなら」と山本さんは故郷、北海道に戻ることを決意する。
北海道に戻り、教員&社会人サッカーに邁進
大学卒業後に北海道に戻ることになったが、それが決まったのが大学4年の3月のこと。
連絡が来て1週間後には北海道に移ったが、本格的に引っ越しをするのには時間がなかった感じで、元住んでいた部屋はそのままにして、ひとまず身一つで北海道に戻った。
とりあえず4月から働き出して、ゴールデンウィークに仙台に戻って、荷物を整理しました。
GWはサッカーチームの練習が毎日のようにあったんですけど、2日間だけ抜け出して、引っ越した感じで。
大学生のときは学生寮だったんですか?
いや、普通に部屋を借りて一人暮らしをしていました。
なるほど。それで無事に引っ越しも終わって、本格的に教員生活と社会人チームでのサッカーが始まるわけですね。
特別支援学校での教員生活がスタート
最初に赴任したのは、聴覚障害の子たちが通う聾学校だった。
教職課程を履修し、教員免許を取得していたものの、もともと学校の先生をめざしていたわけではなかったので、どのように授業をすればいいのか、特に最初の頃は試行錯誤の連続だった。
さらに、その授業の内容以前に、耳が聞こえづらい生徒たちとコミュニケーションが取れず、その戸惑いが何より大きかった。
自分が喋ってることが相手はわからない。相手が喋ってることが自分もわからないから、コミュニケーションを取るにはどうしたらいいのかなとか、そのためには何が必要のなのかっていうのを考えてました。
体育の先生でしたけど、授業の内容以前の問題でしたね。
体育もやっぱり、何か特別な授業になるんですか?
聾学校に関しては普通学校と一緒ですね。
耳が聞こえづらいけど、体に何も障害がないので普通にやるんだけども、授業進めたくても、例えば最初「日直の人、挨拶して」って言ったら、それが通じないからポカーンとしてるし。
コミュニケーションは手話とかやるんですか?
手話もやりましたけど、どうやったら伝わるかっていうのを周りの先生方の授業を見ながら、真似しながら教えてもらいながらですね。
社会人サッカーチームに所属。北海道ならではの移動問題も飛び込み練習で解決!?
仕事が終わってからは社会人チームでのサッカー練習に取り組む。
全8チームあり、北海道全域にあるアマチュアリーグで、今ほどサッカーのリーグが整備されていない時代だったが、今でいうところJ1、J2、J3、その下にあるJFL(日本フットボールリーグ)に行けるか行けないくらいのレベルだったという。
練習は週に3回で、週末は試合という感じで、今までやって来たのとは全く違ったんで、(気持ちやフィジカルを調整するのに)波があって。
もうJリーグに行きたいっていう気持ちは、行けなかったから持ってはいなかったけど…。
あっ、そうなんですね。そこちょっと聞こうかなと思ったんですけど、そのときは(Jリーグへの)憧れはあるけど半分現実を見だしたというか。
そうですね。だけど、やっぱりこの北海道に戻ってきて、昔とは姿が違うところを見せたいし、北海道で「誰にも負けたくない」って思ったから、そういう意味でトレーニングを頑張ったりとか。
正直、プロへの道は「難しいな」と感じていたが、「100%無理」だとは思っていなかった。
1%は可能性があると考え、その夢を頭の片隅に留め、上の言葉にあるように「誰にも負けたくない」「絶対に誰にも負けない」という気持ちで日々のトレーニング、サッカーに取り組んだ。
ちなみに、山本さんは札幌市がホームタウンのチームに所属していた。
約20年間教員生活を送ったわけだが、学校の先生は数年置きに赴任先が変わる。
山本さんの場合、
- 札幌
- 紋別
- 帯広
- 函館
- 余市
- 中標津
といった地域を転々とし、例えば最初の赴任先でもあった中標津町だとチームの本拠地がある札幌まで約420kmある(東京から大阪間の距離は、直線にしておよそ400キロメートル)。
移動距離の問題から週末しかチームに合流することができず、日々のトレーニングは一人で行ことになる。
一人だと走り込みとかの基礎的なトレーニングとかで、どうしてもやれることが限られてしまいますよね。
毎日の一人での練習はもちろんするんですけど、それとは別に、その時々に住んでいた地元の社会人チームへの練習参加、小学校のサッカー指導なんかもしていました。
なるほど。それは知り合いの伝手をたよってとか。
いや、飛び込みというか、夜に練習をやっているであろう時間に車で走りながら、ナイターがついているグラウンドを探して、サッカーをやっているのを確認すると、そこに入っていって「入れて」って交渉し、練習に混ぜてもらうんですよ。
ほんとに飛び込みですね(笑)。
混ぜてもらったら、最初から全力でプレーします。そうすると、次の週からも参加できるようになって、一人ではどうしてもできない練習とかをそこで実践していました。
それと、いろんな選手とプレーするということは、いろんなサッカーに触れるということで、そのこともいい経験になりましたね。
それは個々の選手の個性とかもだし、チームの特色や取り組み方みたいな?
そうです。それぞれの選手やチームのやり方、個性の中で、自分のパフォーマンスを発揮するにはどうしたらいいかをいつも考えていました。
例えば、欲しいタイミングでパスが来ない、(ボールを)出したいところにアクションが起きない。一方で、すごいプレッシャーでボールを奪いにきたりする。そうした状況の中で圧倒的なパフォーマンスを出すのは簡単なことではありませんが、プレイヤーとしての自分を高める上ではいいトレーニングになりました。
中標津から札幌(片道、約6時間半!)まで毎週2回通う日々⁉
距離の問題からチームの合同練習は週末のみとのことだったが、大学を卒業してすぐの頃は、水曜に開催されていた練習試合にも参加した。
中標津から札幌までは上で紹介したように約420kmあり、それを毎週車で通った(片道、約6時間半!)。
そんな生活を5年間続けたんですけど、新車は1年間で15万キロ走った上で廃車になりました。
15万キロってすごいですね。ググったら、赤道はの長さは約4万キロなので、約4周弱の距離を一年間で移動していることになります(笑)。
てか、それだけ走ってるとガソリン代もバカにならないですよね。
その頃、1カ月のガソリン代は15万円くらいかかってました。
約700km離れていた函館にはさすがに飛行機で行きましたが、当然飛行機代もかかります。
もう修行僧の勢いですね。アマチュアでそこまでやってる人はなかなかいなんじゃないですか。
いないですね。実際に、クレイジーというか、周りからもバカ扱いされました。
でも、その原動力になっていたのがさっきも言った「誰にも負けたくない」という気持ちで、距離のこととか、いろいろと言い訳をして負けたくなかった。ただただその気持ちだけで、全力で取り組んでいました。
国体の代表メンバー入りが大きなモチベーションに。
社会人リーグでの試合のほか、大きなモチベーションになったのが北海道代表メンバーとしての国体への出場だった。
実は高校3年生のときに一度出場したことがあったが、そのときと社会人になってから出たときとでは、自身の受け取り方が全然違ったという。
高校の時はなんにも思わなかったんですけど、社会人になってからは特別なものがあるというか、職場からも祝福されるし、所属していたチームからも二人だけしか選ばれてなかったし。
そういう意味で、みんなの代表で、チームのためにというか、もともと北海道のサッカーを強化してほしいみたいな感じでお誘いを受けたので、そういうことを意気に感じてやっていたところはあります。
国体での成績はどんな感じだったんですか?
国体には毎年選ばれてたんですけど、優勝には手が届きませんでした。大阪での国体(なみはや国体)のときに、確か僕が23か4くらいでしたけど、その時が準決勝まで行っきました。
でも、一回戦で負けた年もありましたし。
北海道の代表として毎年選出されていたということですが、何歳まで出場されていたんですか?
僕、現役が長かった選手で、コンスタントに(国体の北海道選抜に)選ばれてたんですけど、あるとき右の前十字靭帯を切って。その大怪我をする前までは、毎年選ばれてましたね。
右足十字靭帯損傷の大けがを乗り越え、41歳まで現役を続ける
右足の前十字靭帯を切ったのは34歳のとき。
チーム内の練習試合のときに、後ろから来た選手からスライディングを受け、カニばさみのような感じに足を挟まれ、倒れ方が悪く靭帯を損傷することになる。
けっこうな大ケガだと思うんですけど、年齢的なことも考えて、そのときに辞めようとかは思ったりしなかったんですか?
なかったですね。ケガ自体は、現役復帰できるかどうかってレベルのダメージだったんですけど、主治医の先生が間違いなく治してピッチに立たせてやるから心配すんな」って言ってくださって。
リハビリもやってて、きつかったし、その過程で自分が思ってるようなイメージにはならないだろうなっていうのも感じたけど(辞めようとは思わなかった)。
なるほど。じゃ、リハビリされてて、足もそんな速さっていうのは戻らないだろうなあみたいな…。
はい。(復帰後)スピードもないし、今までみたいにダイナミックに行けるような感じじゃなかったです。
僕小学校のときはフォワードでしたけど、どんどんポジションは下がってきて、最後ボランチにいたんですね。大学もボランチで、社会人になってからボランチやったり国体だったらセンターバックやったりとか。
どんどん後方になっていったと。
昔だったら相手持ってるの自分から飛び込んでボール奪えたのが、怪我を治してリハビリやってるときに、「あー、多分そうやってボールを取りに行ったら、きっとまたやるだろうな」って思ったりして。
そういうイメージが持てなくなっちゃったりして。
とはいえ、その後も現役のサッカー選手として社会人チーム、北海道の代表選手としてプレーを続けた。
ただ、その頃になると同い年の方が監督となり、その人から「もう、そろそろいいだろ」と言われたりもしたが、一方で「大事なところでは使いたい」とベテランとしての信頼も勝ち取っていた(試合にはずっと出ていた)。
実際、現役を続けるにあたり、年齢が上がっても日々のトレーニングは継続し、30代後半になってもパフォーマンスが著しく低下したということはなかったという。
走るトレーニングとかもずっとやってたんですか?
大学生のときみたいに長い距離は走ってなかったけど、僕の後輩で(浦和)レッズに行ったやつからトレーニング方法を訊いたりとか。
食事も後輩の奥さんがアスリートフードマイスターだったから、メニュー訊いて、「これだったら食べても大丈夫」とか、「コンディション維持するためにはこうした方がいい」とかっていうのを全部サポートしてくれてて。だから長持ちはしたんだと思います。
なるほど、内助の功もあったりして。でも、最終的に41歳で現役引退を決意されるわけですよね。
チームの事情で、「お前を使うと若いやつが出られない」っていうので、もうダメだなってなって辞めて。
というわけで、41歳で現役を引退したわけだが、しばらしくして山本さんは思ったというか、実感した。
「サッカーは見るもんじゃなく、やるもんだな」と。
そして、そこから山本さんは現役への復帰、プロサッカー選手への挑戦という道を辿り始めるわけだが、そのチャレンジには伊藤壇という男が大きく関わっている。
山本さんの半生part3に続く。
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