仕事と並行して絵画やイラストなどの作品づくりを継続。山登りの記憶を綴るZINEづくりがライフワークに

大学の後半くらいから「絵を描くのに熱が入った」田岡さんは就職活動はせず、絵を描いて生活する術を探った。

とりあえず、仕事をしながら絵を描いていこうと考え、バイト先だった会社に就職をする。


しかし、結論からいうと、その最初に就職した会社は3カ月で辞めてしまう。

目次

大学卒業後の仕事遍歴

仕事内容は飲食店での接客やビルの管理で、その持ちビルの屋上を住まいとして提供されていた。

場所は大阪市の中心地である本町で、ビルのすぐ横を阪神高速が通っていた。

田岡さん

ワクワクすることが好きなので、大阪のど真ん中のビルの屋上に住むっていうだけでも、なんかネタとしては面白そうだなと思って。

なかがわ

屋上だと夜景とかも見渡せるし、すぐ横を高速を走ってるし。

田岡さん

でも、生活してすぐに「住むとこじゃないな」とは思いました。

なかがわ

まあ、うるさかったりもするしね(笑)

田岡さん

あと、実は同居人の方もいたんですけど、その人がけっこうクセが強かったりもして…。

ビルの屋上に初老の人と一緒に住み込みで働く「丁稚」時代

就職した会社が所有しているビルの屋上に配電盤室のような部屋があり、そのお奥に住居スペースがあった。

当時は誰も使っていなかったが、そこの掃除も兼ねて田岡さんが住むということなった。

で、一人で住むと思っていたら同居人がいて、しかも60歳くらいの方といっしょだった。

田岡さん

仕事の事務所が住んでるビルの隣で、同居人の方とは職場もいっしょですし、家に帰ってもいっしょですし。

なかがわ

じゃあ、いっしょにご飯食べてたりしたんですか?

田岡さん

ご飯を僕が作ったりとかして、僕がお皿によそうんですけど、「皿使ったら水使わなあかんからもったいない」とか言って紙皿を使うとか、ちょっとわけのわからないこだわりがあって、けっこうややこしいところがあって…。人間的には尊敬してるんですけど。

なかがわ

年齢差は40歳くらいあるわけですけど、その方も当時の田岡さんと同じような境遇で働かれてたんですよね?

田岡さん

そうですね。給料はいくらもらっておられたのかわからないですけど(笑)。


ちなみに、当時の田岡さんの給料はすごく少なかった。

「あ、丁稚奉公みたいな?」と質問すると、「まさに、当時は『丁稚』と呼ばれていました(笑)」と返ってきたわけだが、その呼称で扱われ方の想像がつく。

そして、家に帰ると初老の同居人がいて、なんだったらその住んでいるビルの宿直の仕事などもさせられていた。


1日の流れでいうと、9時に隣の事務所に出社し、18時か19時まで働いた後、ビルの屋上の部屋に戻れるのかというとそんなことはなくて、すぐさま1階にある宿直室に行かされる。

そいで、各階の部屋の鍵が閉まっているとかのチェックを毎日のように行っており、まさに「丁稚」というニックネームがぴったりの働きぶりというか、働かされぶりだった。


田岡さん

会社の事務所も隣で、その行き来が主だったんで、本当に飼われているみたいな状態で(笑)。

なかがわ

まあ、バイトのときは毎日行ってるわけではないし、時給換算でもらえたけど、正社員になったら住み込みみたいになるし、薄給になるしで…。

田岡さん

はい。まともな人であれば大学時代に就職先決めたりだとか、進路のことを考えると思うんですけど、自分の場合は急に絵を描くのに熱が入ったんで、仕事がどうとかお金がどうとかどうでもよくて、「いい作品をつくる」っていうのが優先順位としては第一位になってしまった感じで。

なかがわ

そういう意味では「生活できたら最低限でいいや」と思ってやってみたけど、実際はそんな割り切れたもんやなかったってことですね(笑)。

田岡さん

そうですね(笑)。大学時代の生活がすごい底辺的な生活してるんで、それの延長で来て社会人生活もスタートした感じだったんですけど。

なかがわ

逆に言うと、そこまで違和感はなかったんかな、最初は。

田岡さん

そうです、はい。さすがに続きませんでしたが(笑)。

FM802のアート発掘・育成プロジェクトに合格し、イラストなどの仕事が舞い込む

無職になった田岡さんだったが、大学で教員免許を取得していたので、中学校の美術の先生(非常勤講師)として働き出す。

並行して自分の作品づくりに打ち込み、定期的に個展なども開いた。

ちょうどその時に、FM802(ラジオ局)が主催している「digmeout」というプロジェクトのオーディションに作品が通った。

digmeout(ディグミーアウト)とは

digmeout(ディグミーアウト)とは、FM802が行うアート発掘・育成プロジェクト。ラジオ局のイメージビジュルあるに採用することはもちろん、大企業とのコラボレーション、アートブックの制作、海外の展覧会やアートフェアをコーディネートするなど、積極的な育成活動を展開しています。

出典:digmeout

受賞を契機に、雑誌「スタジオボイス」で自動車の広告に関するページを持たせてもらったり、『Meets Regional』と携帯電話キャリアとのタイアップ企画でイラストを描かせてもらったり、仕事をいくつかもらった。

なかがわ

非常勤講師をしながら、そういう仕事も発生して、じゃあ、なかなかいい感じにいった感じやったんですね。

田岡さん

そうなんですけど、元々ずぼらな性格ですし、飽き性なので、納期が守れないとか当たり前のことができなくて…。

1年後には何の仕事も無くなって(笑)。

なかがわ

なるほど。で、作品づくりは続けるけど、もうちょっとちゃんとした仕事をしないとみたいな。

田岡さん

そうです。ちょうどその頃、自分の個展に来てくれたお客さんが、仕事を紹介してくださって。

個展に来てくれた人に仕事を紹介してもらう

個展に来てくれたお客さんと雑談をした流れで「仕事がない」みたいな話をしたら、「家電を修理してる会社に入ったら」と紹介される。

田岡さん

それが某大手家電メーカーの下請けをしていた会社で、言われるがままに面接を受けて、受かって、働き出すことになります。

なかがわ

その方は知り合いでも、その紹介先の会社の関係者でもなく?

田岡さん

はい。家電の修理とかできないし、興味もなかったんですけど、テレビとかPCの修理とかをやっていくなかで覚えていって。

結果的にそこで10年働きました。

なかがわ

なるほど。それで、並行して作品も描き続けて。

田岡さん

そんな感じです。

ようやっと正規の仕事がみつかり、生活が安定する。

並行して、ぽつぽつ発生するFM802の仕事をこなしたり、年1ペースで個展を開いたり、作品づくりにも継続して取り組んだ。

そんな生活が10年ほど続く。

画廊で出会った人に仕事を紹介してもらう

10年務めた大手メーカーのメンテナンス下請けの会社を辞め、現在の職場でもある産業機械のメーカーに転職をする。

それが2016年の話で、きっかけは偶然訪れた画廊だった。

自らの個展ではなく、とある展覧会に田岡さんが足を運んだ時、同じくお客さんとして来場していた知らない人と仲良くなり、「ちょっと転職を考えていたりする」といった話を田岡さんがした際に、「うちの会社受けてみたら」と提案され、受けたら受かったみたいな流れで転職を果たす。

田岡さん

ちょうどそのころ親会社の大手メーカーが海外資本に買収されるとかニュースになってた時期で、下請けの我々もヤバいなって空気になってて。

なかがわ

なるほど。そういうのもあって、転職も考えたり。


田岡さん

で、妻も「ええタイミングちゃう」みたいな話になって。

なかがわ

そんなタイミングで、たまたま知り合った人からいい話があって。

田岡さん

そうなんですよ。僕が入って2年目に東証一部になったような、グローバル展開している会社で、周りはバリバリの理系の人ばかりで、芸大卒は僕くらいなんですけど(笑)。

なかがわ

会社大丈夫かな?みたいなところから転職して、また生活も安定して。で、引き続き、作品づくりにも取り組んでいると。

田岡さん

そんな感じです。

単身赴任で訪れた九州(福岡)時代

転職した企業は海外拠点も多く、転勤が日常的に行われる職場だった。

田岡さんの場合、国内での異動となるが、「転勤可能」というのが入社時の条件のひとつだった。

というわけで、入社2年目に福岡に転勤となる。


これまで見てきたように、仕事と並行してずっと絵は続けてきていたが、福岡に行った際に、画材は一切持っていかなかった。

  • 仕事にまだ慣れていなかった
  • 家族と離れての単身赴任
  • 周りのレベルが高く、ついていくのに必死だった

などの理由で、絵を描く余裕はないし、仕事に集中しようと思ってそうしたわけだが、少しずつ慣れてくれると時間的な余裕も生まれた。

田岡さん

で、住んでたとこの近くに太宰府天満宮があって、その横に竈門神社っていうのがあるんですよ。

神社のお守り授与所がデザイナーの片山正通が手掛けているすごいかっこいい建築で、それ観に行きたいなと思って行ったら、その奥に「登山口こちら」みたいな看板があって。

なかがわ

登山とか興味あったんですか?

田岡さん

興味はないというか、山とか登ったことなかったんですよ。

ずっと絵とか描いてきて超インドア派なんですけど、「これ登れるんやー」と思って、めちゃ暇だったし、登ってみよと思ってその足で登山靴買いに行って、登ってすぐに知らんおっちゃんに声掛けられて、「一緒に上りませんか?」みたいな。

なかがわ

それで友だちになるみたいな。

田岡さん

そんな感じで、その人と宝満山っていう山を登りきるんですけど、「ヤマップっていう登山のアプリ知ってるか?」とかいろんな情報がその人から貰えたりとか。

「山登ったら友だちできるやん」みたいな感じになって、急に登山を始めるんですよ。

時間的な余裕が生まれ、山登りに目覚める

宝満山はそんなに高い山ではなかったが(標高829m)、登ってみて「山面白いな」って感じる。

そっから徐々に山好きになっていったのかというと田岡さんはちょっと違って、翌日、また別の山に出かける。

田岡さん

自分けっこうアホなんでその次の日も山登るんですよ、違う山を。

天拝山ってとこなんですけど、そんな登り方する奴いないんで、急に運動もしたことないのに。やっぱ膝壊してしまって。

なかがわ

足つったり、筋肉痛になったりしますよね。

田岡さん

で動けなくなってる時に、目の前に髪の毛ピンク色のおばあちゃんがいて、シャネルのグラサンかけてるんですよ。

で、「どないしたん」みたいに声をかけられて。

なかがわ

前日に続いて、見知らぬ人から声をかけられたわけですね。


その呼びかけに対して田岡さんが、「膝が痛くて動けない」と話すと、ウェストポーチから芍薬甘草湯っていう袋に68番って書いてた漢方が出てきて、「これを飲みなさい」と勧められた。

突然の展開にわけがわからなかったが、流れ的に飲まないといけない感じになって、「飲んだら治るのかな」と思って飲んだら、すぐに膝が痛いのが治まった。

なかがわ

そのお婆さん、漢方の効用とかに詳しかったんですね。

田岡さん

というか、山登りする人は当たり前のように持ってるんですよ。

なかがわ

あ、そういうことなんや。「膝をいわした時の68番」みたいな。

田岡さん

そんな感じです。

山で出会ったお婆さんとの文通が始まる

漢方をくれたお婆さんにはその場で謝辞を述べ、とりえあえず持っていた名刺を手渡した。

すると、一週間後くらいに福岡の営業所に田岡さん宛ての封筒が届く。

事務員の方から、「女性から封筒が届いてますよ」と連絡を受け、見てみると確かに女性の名前が書いてある。

田岡さん

〇〇ヨシコって誰やねん、と思って封書を開けてみたら、山で助けてもらったお婆ちゃんで。

足の具合はどうですか? みたいな感じのお手紙で、字がすごい達筆で、達筆というか読めるか読めないのギリギリのところの字なんですけど、そんな字でびっしり埋まった手紙届いて。その返事を書くんですよ。

なかがわ

単身赴任で福岡に行って、友だちもおらへんし。

田岡さん

はい、初めての友だちじゃないですけど、そんな感じで返事を書いたらまた手紙が来て、そっからヨシコさんと文通が始まるんですけど、知らないおばあちゃんとずっと文通をしてて。

なかがわ

そのヨシコさんも福岡に住んでおられるんですか?

田岡さん

南福岡の雑餉隈(ざっしょのくま)というとこに住まれてて、やりとりしているうちに「今度会いましょう」みたいな感じになって、飲みに行ったりとかもしてました。

ちなみに、手紙のやりとりは送って、送られてみたいなラリー形式ではなく、お婆さんから一度に大量に手紙が届く。

というか、封筒とかではなく、玄米が入ってたり、シャンプーハットが入ってたり、広告のチラシで作った小物入れみたいなの(ミカンとかの皮入れたら丁度いいオリガミで折ったような箱になるようなもの=田岡さん談)などと一緒に、大量の手紙が送られてくる。

手紙の中身をご紹介すると、

  • 便箋ではなく、広告の裏とか自分の病院でもらった処方箋の紙の裏とかに、びっちり文字が書かれている
  • 山についてや福岡の街の情報などがメイン
  • 例えば、この店が美味しいだとかテレビでこんなこと言ってたよとか

といった感じだった。

なかがわ

あー、もう何か友達にLINEする感覚でやってる感じなんですね。

田岡さん

そうです。自分も向こうから来る量全部には返事できてないんですけど、たまに返事を書く感じで。

ちなみに、くだんの「ヨシコさん」は80歳オーバーのおばあちゃんなんだけど、髪の毛はピンクで(「ノー・ダウトっていうバンドのヴォーカルが髪の毛ピンクのときがあったんですけど、そんな感じのボブで」田岡談)服も全身ピンクで、そこにシャネルのサングラスをかけている。

なので、遠目からでも「ヨシコさんだ」と認識できるという。


田岡さん

見た目からしてパワフルな人なんですけど、例えば「僕の実家が香川なんですよ」みたいな話したら、次の日に香川というか僕の実家に勝手に行ってたり。

なかがわ

え、勝手に!?

田岡さん

はい。香川の金刀比羅宮の麓で、こんぴら歌舞伎大芝居っていう歌舞伎があるんですけど、それの記念切手を買ってきてくれて、「はい、お土産」とか言ってくれたりとか。

なかがわ

行動力があるというか、確かにパワフルですね。

田岡さん

世界各国の山を登られて、今は足が悪いんで地元の近くの低い山しか登ってないんですけど。

そのヨシコさんから大量に手紙が届いたわけだが、「個人的なやりとりだけで誰に見せるでもない、すごいびっちり書かれた手紙」が田岡さんの創作活動にも影響を与えることになる。

山登りの体験を記録する世界に一つだけのZINE(ジン)

仕事として依頼を受けるイラストでも、自発的に作品づくりに当たるファインアートでも、田岡さんは「人に見せるため」に絵を描いてきていた。

「人に見せるため」の裏には、「いいと思ってもらいたい」「きれいな作品をつくりたい」などの思いが動くわけだが、ヨシコさんの広告の裏とかにみっしり書かれた手紙を見て、その自由さというか、周りをいっさい気にしない感じにインスパイアされて、自分もこんな風に作品にかかわってきたいなと思うようになる。


それで、山登りをするたびごとに一冊ZINE(ジン)を作る活動を始めた。

ZINEのタイトルは、名づけて『山とTAOKA』。

なかがわ

印刷してとかじゃなく、一冊こっきりのZINEってことですね。

田岡さん

はい、どこにも流通しないようなZINEで、山にあったものを拾ってはっ付けたりしてます。

なかがわ

旅の記念じゃないけど、それを落とし込むみたいな感じですかね。

田岡さん

そうです、そうです。登った感じだとかを写真とか文章で書いて。特に内容はないんですけどね。

今で80冊ちょっといきました。

田岡さんの半生part3に続く。

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