アメリカの大学に通っていたときに付き合っていた彼氏(5コ下。飛び級で大学に進学した秀才で、その後ごりごりのヒッピーに)は読書家だった。
マミさんが目の手術をして急きょアメリカでの滞在が伸びたとき(第2話参照)、動画鑑賞や読書もできなかったときに、彼氏がオーディオブックでスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』なんかをかけてくれたりした。
一方で、当時のマミさんはいっさい読書はしない人だった。彼氏の家にあったフォークナーの本をたまたま手にとったのがその最初なんだけど、本格的に読みだしたのは日本に帰国してから。
けど、とにかくハマったのがフォークナーだった。というわけで、最終話はマミさんの読書にまつわる話。
※撮影協力:スタンダードブックストア
※写真:白石卓也
読書をするきっかけとなったフォークナー


なんか昔、英文で読んだときに、フォークナーが一番よかったみたいなことを言ってた記憶があるんだけど。



他の作家の作品とかもいろいろ英語で読んだことがあるんだけど、明らかにこの人(=フォークナー)だけ別格やなっていうのをすごい感じて。
もちろん私との相性の問題もあると思うんだけど。やっぱフォークナーすごい文体に癖があって、アメリカ人でも読むの嫌がるぐらい癖がある。



癖があるっていうのは、難解みたいなイメージってこと?



うん、難解。使う単語もまず難しいから、こんな単語使うのっていうような感じの単語使うのもあるし、あと文章とかもあのなんか『アブサロム、アブサロム!』とかだったら、ずっとピリオドがなく、エンドレスで文章続くみたいな。
レイモンド・カーヴァーに代表されるミニマリズム小説という分野があるが、それとは真逆で、わかりにくく、ひたすら長く続いていくみたいな作品がフォークナーの特徴だ。
ミニマリズム小説とは?
アメリカ合衆国では1960年代に登場し、主流を占めた傾向、またその創作理論であり、「minimal(最小限) + ism(主義)」という組み合わせの造語であり、要素を最小限度まで切り詰めようとした一連の態度から生まれた、必要最小限を目指す一連の手法や、その結果生まれた様式である。装飾的な要素は最小限に切り詰め、シンプルなフォルムを特徴としている。芸術の諸分野(美術・建築・音楽・哲学・生活様式 等々)で導入、展開された。その結果、ミニマリズム文学、ミニマリズム建築なども生まれた。
文学のミニマリズムは1980年代にレイモンド・カーヴァーらによって勃興した。
出典:wikipedia



現代の作家だったら、例えばポール・オースターとかはすごい英語ですごい読みやすい作家で。
ニューヨーク3部作とかね、出すぐらい都会の文学の人で、かつその淡々としてる、私のイメージとしては例えば色でいうとモノクロみたいな、なんかすごく淡々としてかつ、文章とかも無駄があんまりない、ダラダラダラダラ書かずに、淡々としてるって感じで、フォークナーはそれの真逆で。



アメリカは小説の書き方とかも大学で教えてるから、メソッドとかもある程度確立してて、そのイメージでいうと今挙げてくれたポール・オースターみたいな文章の方が意に叶っているというか、教えやすいというか。
どっちがいいとか、そういう話ではないけど。まあ、フォークナーはそういうのとはまったく違うということで。
アメリカ人が顔をしかめ、嫌っているフォークナー


フォークナーは一文がすごい長くて、文章をとにかくつなげていく。
また、フォークナーが確立した一般的に「意識の流れ」というものが、唐突に地の文に挿入される。
「意識の流れ」として、
- 話のストーリーの筋と関係ない登場人物の心の声
- 今現在の場面とは関係ない過去のシーン
などが脈略もなく地の文に埋め込まれるカタチで出てくる。
※地の文とは別のフォントで、斜体などで「意識の流れ」は表現される。



あれ僕も初めて読んだときは意味がわからんくて、解説とか読んで理解するみたいな。



ほんと難解で、アメリカ人も嫌がる。意味わかんないって。
でも私は1番読みやすい、むしろさっき言ってたフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』とか、あっち系が逆に読めなくて。明らかにあっちの方が読みやすいんけど、多分自分との波長が合う合わない問題を考えると向こうの方が読みにくい、私は。



じゃあ、向こう(アメリカ)の大学とかでも、フォークナーとか読んでる学生なんてほとんどいてないみたいな感じ?



うん。ただ、彼の家にもフォークナーの本があったんだけど、それは授業で習うからで、アメリカ人はね一応授業で習うみたい。
まあ母国のね、ノーベル賞作家だから、文学の授業で取り扱うみたいで、アメリカ人は割とみんなフォークナーのことは知ってるんだけど、みんな顔をしかめる。文章の読みにくさとかもあるんだけど、テーマが重いから、基本黒人差別とリンチ、レイプとかでしょ。
フォークナーだったらヴァージニア・ウルフ読んでよって


フォークナーの作品群を簡単にまとめるのはなかなか大変だけど、マミさんのコメントを元にあえてやってみると、
- 閉鎖的な南部の町で起こる重い話が基本
- 白人もハッピーな状態で暮らしてなくて、いわゆる白人貴族と呼ばれる人たちも、どんどん斜陽していく
- 特に南北戦争のこととかが舞台として描かれてる(南北の差異を描く)
- 北部が文明化していく一方、南部は農業エリアが多く、プランテーションで綿の栽培なんかをしている
- 北部の人はそうした南部の人に対し、「奴隷を持つな」「工業化すべき」といった論調で迫り、揉める
- 北部の侵入により、南部の文化が破壊されていく
- 奴隷を持つことが道徳的にダメなことだと言われても、自分達の生活はそれで成り立っている
- 奴隷を解放したら、自分たちの生活が成り立たない ⇒ 岐路に立たされている
- 黒人はもとより、さらに貧しいホワイトトラッシュとか、プアホワイトとか呼ばれる人たちも描く



これに殺人やらレイプやらが絡んでくるから、たしかに重い(笑)。特にアメリカとかだと、ハリウッド映画みたいなハッピーエンドのからっとしたような話の方が好きやもんね。



勧善懲悪みたいな感じの方がわかりいいんだけど、フォークナーのやつだとなんか、あんまりその辺スッキリしなくてモヤッてするし。


しかもそうした重いテーマを難しい言葉で、かつピリオドもなく、誰の独白なのかよくわかんない文章(意識の流れ)が間に挟まれまくりみたいなので、ダーっと書く。
さらに、フォークナーの作品では知的障害者がよく登場し、知的障害者の独白とかもはや何を言ってるのかもわからないみたいな感じになっていたりもする。



そんな感じでフォークーはアメリカ人から嫌われていて、私が読んでたときも当時の彼氏に、「いやそんなものよりもっと可愛いもの読んでくれ」って言われて、可愛い文学って何?って聞いたら、ヴァージニア・ウルフとかとか言われて。



ヴァージニア・ウルフが可愛いっていう、なかなかハイブロウな彼氏。



なんか、せめてもうちょっと女性作家とか読んだらみたいな。



ヴァージニア・ウルフも、一般的には読みにくいんじゃないの? わかりやすい話の筋とかもないし。



そう、なんだけど、いやフォークナー読むぐらいだったらヴァージニア・ウルフって。君は多分それ気に入ると思うから、せめてこっちを読んでくれ、みたいな。



あそうか、そういう対比としてはそうかもしれないけどね。黒人のリンチの話とかも出てこないし。
初めてフォークナーを読んだときに号泣したけど、すぐにページを閉じる


フォークナー読むくらいだったらヴァージニア・ウルフ読んでといった彼氏だったが、そもそもマミさんはフォークナーの本と出合ったのが彼氏の部屋だった。
部屋にあったフォークナーの『死の床に横たわりて』をなんとはなしに手に取って、たまたま開いたところから数ページ読んだら号泣した。



え、なんで!?



今はまだ心の準備ができてないと思って…。
当時は神とか愛とか言葉とかですごい悩んでて、たまたま読んだアディの独白の箇所がすごい響いて号泣したものの、通して読むのはまだ無理だなと。



ということは、そのときに最後まで読んだわけじゃなく、読了したのは後の話ってことやんね。



うん。アメリカから帰国してから5年くらいたったころかな。
てか、フォークナーどころから、実はそれまで私はぜんぜん読書とかしない人だったんです。
そんなマミさんがフォークナーをはじめ、なぜ読書に傾倒していったのかというと、実はそのころ、ご家族の方に不幸ごとが続いて、思い悩んでいた。
そんなときに思い出したのが、アメリカ滞在中にたまたま手にして号泣した『死の床に横たわりて』の一節だった。



そのときは翻訳じゃなく、原書で?



そう。Amazonで買って。それが私がフォークナーにハマるとともに、読書するようになったきっかけです。
フォークナーは日本語(翻訳)では読めない


ちなみに、フォークナーの諸作品を英語の原書で読んだという話なんだけど、日本語訳のは読んだのか聞いてみると、「日本語では怖くて読めない」とのこと。
例えば『八月の光』とか、最近「光文社古典新訳文書」で新訳が出たそうだが、新潮社版を本屋で初めてみつけ、1ページ目をめくった瞬間、「いやもうこんなものフォークナーじゃないよ」って投げ捨てたくなったぐらい、やっぱ違うと感じだという。



英語と日本語だと、そんなに違う感じ?



なんかね、違う。リズム、なんか韻を踏むとかそういうのだけじゃなくて、文章読んだときのリズム感とかが、すごい絶妙なんですよ。
だからめっちゃ耳良かったんじゃないかって思ってて、フォークナーが。



きれいな韻を踏んでいるとかだけじゃなくて、読んでて心地いい感じやった?



読んだときのタンタタンタタンみたいな感じのリズム。それが(翻訳では)全然再現されてなかったから。日本語にするとね、どうしてもリズムがなくなるっていう。
マッカラーズのブームが来ると思ったけど来なかった件


マミさんはアメリカから日本に帰国する際に、2冊の本をプレゼントされた。
それがカーソン・マッカラーズの
- 心は孤独な狩人 “The Heart Is a Lonely Hunter”
- 結婚式のメンバー”The Member of the Wedding”



本好きの彼氏のお母さんが小説家で、彼女がマッカラーズすごい好きでプレゼントされたんですけど、マッカラーズって言ってもあんま日本の人に通じなくて。



たしかに。僕もたまたま『結婚式のメンバー』は読んでたけど、そんな詳しく知らないし。



そしたら村上春樹が数年前に訳してくれたから、「もしかしたらマッカラーズブームが来るんじゃないか」と思ったら、別にブームにはならんかった。



そうやね、僕も村上春樹が翻訳したやつで読んで。


ちなみに、マッカラーズもフォークナー同様、アメリカの南部を舞台にした作品を発表している(いわゆる『南部ゴシック』)。
イギリス人作家のグレアム・グリーンの言葉を引用。
マッカラーズと、そしてもしかするとウィリアム・フォークナーはD.H.ロレンスの死以来、独創的な詩的感性をもった唯一の作家かもしれない。わたしはフォークナーよりもマッカラーズが好きだ。彼女は彼より明瞭に書いている。わたしはD.H.ロレンスよりも彼女の方が好きだ。彼女はメッセージをもっていない。
— グレアム・グリーン
出典:wikipedia



カーヴァ―とか村上春樹の翻訳ものは好きで、けっこう読んでたりするんですよ。だから、マッカラーズの『結婚式のメンバー』も読んでたりして。



春樹はカーヴァーとかフィッツジェラルドとか大好きだと思う。このあたりの人たちは、文章にそんなにクセがないから、訳したときにそこまで違和感もないんだけど、フォークナーはとにかく全然違うものになってしまう。



特にカーヴァ―とかだと短文なんで、アレンジするにしても限度というか、そう大層なことならないけど、
フォークナーは良くも悪くも、いかようにもやりようがあるから、違ってたら全然違うみたいな感じなんかな、今の話で行くと。



あとなんか黒人の人たちの喋りとかが、日本語訳になるとズーズー弁になるっていうか、「なんとかだべ」みたいな。「やっこさん、なんとかだべ」みたいな。
南部の黒人のしゃべりがズーズー弁みたくなる問題


アメリカ南部の架空の都市、ヨクナパトーファ郡を舞台としたフォークナーの一連の作品には、貧しい黒人たちがよく出てくる。
標準的な英語ではなく、南部訛りで書かれていて、その南部訛りの発音とかイントネーションで読んでたときに、そのリズムがすごく心地いいのだという。
一方で、日本語訳になると「なんとかだべ」みたいな表現になってしまっているのが、マミさん的には承服しがたかった(原文のリズムがいいと感じていただけに余計に)。



昔「ロッキンオン」とかでオアシスのインタビューとかが、べらんめえ口調になってたみたいな。
てか、それよりも確かにフォークナーのズーズー弁みたいなのは気になるよね。



そこがやっぱり気になって、黒人の人たちの南部訛りがすごいい感じなのが、日本語になったときに、「おらなんとかだべ」みたいになったら、なんか違うみたいな。



それはでもさ、その両方分かる人への質問としては、どうすんのが正解やと思うの?



わからん。でも多分、やっぱ日本語の訛った日本語で訳すのがいいと思うんだけど、「おらなんとかだべ」みたいなのは、でもなんかちょっと違う気がする。
「やっこさん」とか言わんやんみたいな。


例えばそれは、日本の小説で大阪弁で書かれている作品を英語に訳すときに、じゃあどうすんねん?という問題とリンクする。
「なんでやねん」を「why」と訳すのはなんかちょっと違うというか、ニュアンスが伝わらない。
いや、これ原文は大阪弁なんですとかいっても、翻訳すると細かなニュアンスが損なわれるのと同じようなことがフォークナーの翻訳された作品群にも感じるという。



多分それでいうと、読んでるかどうか知らんけど、野坂昭如を英訳するみたいなイメージ?



私、野坂昭如好きで結構持ってるけど。あの人の文章特徴あるから、あれもね。



あのなんかダラダラ長々関西弁で書いてるようなやつを再現不可能やろみたいな感じやもんね。
まあ野坂昭如とフォークナーは全然ね、トーンが違うとは思うけど、そういうニュアンスで言うとそういうことか。



そう、そういうことで逆にその、例えば日本の作家だったら村上春樹とかはすごいそういう意味では訳しやすい、英語とかに。
やっぱり翻訳よりも原文が断然いい


これまで話してくれたような理由で、フォークナーの作品は日本語ではなかなか読めないということだったけど、そうは言うても読了したのはないのか聞いてみると、
- 熊 他三篇 (岩波文庫) 翻訳:加島 祥造
- フォークナー短編集 (新潮文庫) 翻訳:龍口 直太郎
この2冊は最後まで読んだとのこと。



その2作品は行けた感じ?



いや、やっぱり原文の方が断然いい。だから多分、『響きと怒り』とかは私日本語のやつも読めないと思う、原文が良すぎて。



やっぱ最高傑作は『響きと怒り』?



いや私一番好きなのはね、最初に読んだ『死の床に横たわりて』。登場人物が入れ替わりで独白していくやつ。
日本だと多分『響きと怒り』と『アブサロム、アブサロム!』とか、『八月の光』とかの方が代表作扱いされてると思うけど。


マミさん的にいいと思えたフォークナーの日本語訳作品を挙げてもらったわけだが、「ただやっぱりそのフォークナーの良さっていうのはだいぶ薄れてるよね、みたいな感じはしてます」とのこと。
文体に特徴のある人だから、どうしても訳すってなると、意味を伝えるとともに当然そこには微妙なニュアンスであったり、言葉のリズムなども再現しようと試みられているわけだが、フォークナーの場合、なかなか難しいというか、



英語で書かれた詩を日本語に訳したときとかに、全然違うものになる。日本の和歌を英語にしたところで、別物じゃないですか。



松尾芭蕉とかね。あと英語の場合、とくに詩は韻を踏んでるしね。
ちなみに、今も原文で英文のやつとか読んだりしてるの?



うん、たまに読む。英語の原文で読むときもあれば、フランス語とか他の言語で書かれたやつを邦訳を買わずに、英訳を買って読むこともある。英訳の方が分かりやすいの。



日本語よりわかりやすいんだ。それはどういう意味において?



なんかね、哲学書とか、小説でもちょっと哲学的なことを書いたりすると、日本語で読むとグルグルグルグルしててわかりにくいやつが、英語だとスパッとはまってたりするときがある。
それは同じアルファベットの文字というのもあるが、構文の違いにもあるようで。
英語の場合、主語・動詞の構文が基本で、最初に結論が書かれるけど、日本語だとそのへんが自由自在というか、ダラダラ文章がつらなっていって(特に哲学書とかだと)意味がわかりにくくなる傾向にある。



なるほど。そういう意味において英語の方がわかりいいみたいな。
ちなみに、英語の原書ってどこで買うの? あ、Amazonか。



基本Amazonが多いかな。今読んでるローランビネの『言語の七番目の機能』はまさに原文がフランス語で、それの英訳のやつなんですけど、これは梅田の紀伊國屋で買いました。
友だちが「洋書セールやってるよ」って教えてくれて。



そもそも読まれへんから洋書コーナーとかまではチェックしないんだけど、けっこういろいろ売ってるんやね。



セールとかだと、大体が正直あんま興味ないなっていうもんばっかりだったんだけど、よく探すとちょっと自分好みの掘り出し物が見つかったりとかして。
そのときね(ローランビネを買ったとき)、あとなんかチャック・パラニュークの『ファイト・クラブ』買ったりとかした。
好きな日本人作家


フォークナーを中心に、散々海外文学の話をしてきたけど、意外と本格的に読書に取り組むのは遅かったというマミさん。
(きっかけはアメリカで偶然に出会ったフォークナーで、本格的に読み始めるのは帰国し、5年くらい経ってからのこと)
海外の作品は主に原書で読むとのことだが、そんなマミさんに好きな日本人作家についても聞いてみた。
川端康成の『みずうみ』がぶっちぎり


最初に名前があがったのは川端康成で、好きな作品はぶっちぎりで『みずうみ』とのこと。



一言でいうと、変態・ロリコン・ストーカーみたいな。



『みずうみ』は読んでなかったけど、『眠れる美女』みたいな感じか。
眠れる美女(「BOOK」データベースより)
波の音高い海辺の宿は、すでに男ではなくなった老人たちのための逸楽の館であった。真紅のビロードのカーテンをめぐらせた一室に、前後不覚に眠らされた裸形の若い女―その傍らで一夜を過す老人の眠は、みずみずしい娘の肉体を透して、訪れつつある死の相を凝視している。熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の名作『眠れる美女』のほか二編。



『眠れる美女』も好きだけど、あれよりももっとやばい。描写の中にいきなり、え?みたいなのが次から次へと出てくる感じで。



なんか具体的な描写とかわかる?
といってお話いただいたのが、次のような場面。
冒頭、性風俗店から始まり、主人公の老齢の男性(銀平)が、湯女(ゆな)のマッサージを受けながら、高校教師だった頃に初めて後をつけた教え子・玉木久子のことや、母方の従姉・やよいへの少年時代の初恋を回顧する。
(その性風俗店の女性に自分の水虫の話をしたりもする)
また、うらわかい娘としゃべってるときに、いきなり相手の女の子の髪の毛をぐっとつかんで引っ張る。んで、女の子の方が、「あ、痛い」とか言うんだけど、主人公の銀平は抜けた髪の毛をポケットに入れてもって帰る(※このエピソード、うろ覚えでもしかしたら他の作品かもとのこと)。
とか、なかなかに変態的な感じ。



谷崎潤一郎も耽美で、変態的な作品があるけど、谷崎が陽だとすると、川端のは陰みたいな感じで。



ちなみに、なんでその作品を読もうと思ったの?



知り合いの川端好きの人から、「ほんとにいいんですよ!」って言われて、良さがよくわかんかったけど熱意だけ伝わって、
じゃ、読もうかなと思ったときに自分で調べたんですけど、わたし作家の代表作と相性悪いことが多いから、避けて…。



なるほど。『伊豆の踊子』とか『雪国』とかはスルーして。



うん。それで新潮文庫からいっぱい出てたから、一冊ずつ裏側(の解説)を見てみて、『みずうみ』いいんちゃうかと。
ちなみに、新潮文庫の背表紙の解説を引用すると、
美しい少女を見ると、憑かれたように後をつけてしまう男、桃井銀平。教え子と恋愛事件を起こして教職の座を失ってもなお、異常な執着は消えることを知らない。つけられることに快感を覚える女の魔性と、罪悪の意識のない男の欲望の交差――。
現代でいうストーカーを扱った異色の変態小説でありながら、ノーベル賞作家ならではの圧倒的筆力により共感すら呼び起こす不朽の名作。
と、まあこんな感じ。
フォークナーといえばやっぱり中上健次


フォークナーといえば中上健次みたいなとこあるけど、聞いてみると、やっぱり中上健次も好きとのこと。
つーか、熊野大学にも2回くらい参加したことがあるらしい。
熊野大学とは
野大学」は和歌山県新宮市出身の芥川賞作家・故中上健次氏によって1990年に設立されました。
「試験もない、校舎もない、校則もない」「だれでもいつでも入学でき、卒業は死ぬとき」という、そこに集うひとりひとりの志(こころざし)によって成り立つという全く尊い学校なのです。
中上氏は、氏の構想した「熊野学」の拠点とすべく「熊野大学」を設立されたのですが、惜しくも1992年夏46歳の若さで他界され、その後は氏の遺志を受け継いだ有志が中心となって活動を続けて現在に至っています。
毎年恒例の夏期特別セミナーは、渡部直己氏や高澤秀次氏にコーディネートいただき、柄谷行人氏や浅田彰氏をはじめとする著名な評論家、作家、文化人等をゲストに招いて開催されています。
出典:熊野大学公式サイト



私が行ったときは、浅田彰と中森明夫が来てた。そのときにもなんか言うてたけど、今はもう路地的なもの、人間関係が濃密すぎる人間関係みたいなものが現代においてあまり受け入れられないみたいな。
むしろ人間関係の希薄さみたいなものが目立つ時代だから、中上健次的なものはあんまりみたいな。



中上健次の路地的な空間の消失は柄谷行人とかもよく言ってたよね。そんな現代社会において、『シンセミア』を上梓した阿部和重はやっぱり偉大だと個人的には思う。
※ここから少し阿部和重の話が続いたけど、長くなったので割愛。


たしか、柄谷行人が中上健次にフォークナーを薦めて、猛勉強したというか、影響を受けた中上がその後いわゆる紀州サーガと呼ばれる一連の作品を書く。
みたいな話をしているときに、そういえば半年ほど前、ある店で中上健次好きのスイス人の男性と意気投合したことを思い出し、その話題も出したりした。



中上健次の翻訳は、フランス語で出てると思います。



あ、そっか。日本語で読んだと記憶がすり替えられてたけど、翻訳が出てたな。



フォークナーも最初フランスで認められて、その後世界的に有名になった感じで。



やっぱ芸術に対する懐の深さみたいなものがあるよね、フランスは。
ちなみに、フォークナーは難解なんで本国のアメリカでポピュラーな存在ではないという話があったときに、日本だと大江健三郎とか、中上健次みたいな名前が挙がった。
言ってるニュアンスはわかるけど、個人的に大江や中上はそんなに読みにくいと思ったことはないので、それよりも難解なイメージのあった「古井由吉とかかな」と言ってみたりした。



古井由吉、『眉雨』とか読んだような気がする。



マニアックなの読んでんな。『仮往生伝詩文』おすすめです。あと、『白髪の唄』とか。
マミさんのおすすめ本


最後に、読書好きのマミさんにおすすめ本を紹介いただきました。
作品は、
- ナボコフ『ロリータ』
- ボブ・ディラン『タランチュラ』
- フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
- アナイス・ニンの短編集
- パティ・スミス『無垢の予兆』
各作品、一言コメントをもらいました。
ナボコフ『ロリータ』


有名な冒頭は言葉の選び方、音の響き、リズム、どれをとっても神がかっているとしか思えない。
最初のページだけでもいいから英語で読んで、ナボコフの言葉遊びに触れてほしい。
ボブ・ディラン『タランチュラ』


ボブ・ディランの大ファンの元カレから、「ボブの曲を聴くのはいいけど詩集を読むのはおすすめしない」と言われた本。とにかく難解。
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』


初フォークナーがアブサロムだと二度とフォークナーに戻って来ない説があるとか。
ピリオドがないまま延々と文章が続いたりして、読者に不親切。でもこれこそがフォークナー。
アナイス・ニンの短編集


晩年まで書き続けた膨大な量の日記を出版したことで知られるアナイス・ニンの短編小説。
ストーリーよりもイメージを重視した作風で、とても幻想的。
パティ・スミスの『無垢の予兆』


パティ・スミスの詩集。
音楽とはまた違う印象を詩から受けることが多くて、その違いについて考えることも。ウィリアム・ブレイクの詩集も読みたくなる。
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