大阪・梅田駅から一駅で、徒歩でも行ける便利な立地にありがなら、昔ながらの街並みが残る中崎町。
カフェや雑貨屋さん、古着屋さんなんかが林立し、おしゃれなスポットとしても人気だが、そんな地下鉄・中崎町を駅を出てすぐのビルにあるのが葉ね文庫だ。
今回インタビューにご登場いただくのは、その「葉ね文庫」店主の池上さん。
WEBデザイナー・マーケターとしてキャリアを積み、本屋開業後も並行してWEB関連の仕事を続けてきたわけだが、まずは葉ね文庫をオープンさせる前、お仕事の話を中心に訊いてみた。
※写真:白石卓也
葉ね文庫のお店情報

インタビューにいく前に、まずはお店の情報から。
お店の基本情報は以下のとおり。
葉ね文庫
・住所 大阪府大阪市北区中崎西1-6-36 サクラビル1F
・営業日 火・木・土曜日
・電話 090-9271-3708(営業時間以外は折り返しの電話となります)
・メール info@hanebunko.com
営業時間の詳細はこちら。
- 火:15時~21時30分
- 木:19時~21時30分
- 土:11時~21時30分
地図の詳細は以下をご覧ください。
短歌、俳句、詩に強い葉ね文庫

葉ね文庫は短歌、俳句、詩を中心とした新刊をはじめ、リトルプレスや雑誌なども取り扱う本屋さん。
そのほか、小説やマンガなどの古本も店頭には数多く並んでいる。

昨年(2021)久しぶりにお邪魔しましたときにも思いましたけど、本の量が増えてますね。



古本が多くなって、(その整理まで)ちょっと手が回らなくて。



売りにこられた書籍は、なんでも引き取ってる感じなんですか?



そうですね。売りにくいのとかは安くで、それでもよかったらという感じで引き取ったり。
初めて葉ね文庫さんを訪れたのは2015年の夏か秋くらいのことで、そのときは現在お店の中心部に置かれている頑丈そうな本棚(×2)はなく、大きなテーブルが置かれ、その上に詩集や歌集などの単行本が並べられていた。
※当時(2015年)の写真。
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どっちがいいとかそういう話ではなくて、単に物量が増えたんだなと思ったんだけど、
実際上の話にもあるように、古本の買取なども増えて、2015年当時と比べると圧倒的に本の圧が増している。
印象的なブルーの壁紙(カモメじゃなくて「跳ね」の絵)


お店の雰囲気がというか、物量が圧倒的に増えていて、数年前に来させてもらったときとパッと見の印象が変わってたんだけど、変わってないのが葉ね文庫さんの店内に入ってすぐの左手の壁で、水色をバックにカモメの絵が描かれている(と思ったけど、これはカモメじゃなくて実は「跳ね」ている柄だそうです)。
この壁紙を担当したのが、アーティストのAkio Kanataniさんで、池上さんは以前から、ネットで見かけたKanataniさんの写真が気になっていた。



うまく言えないんですけど、まっすぐな写真を、なんて言ったらいいのかわかんないけど、いろいろ水平で、面白い写真やなあって思ってて。
で、その方が私がお店をオープンするのを知って、連絡をくださって。



あ、相手の方からオファーが来たんですね。



私は彼の作品(写真)をずっと見ていたから、この方に任せてみたいなっていう気があって一回会うことになって。
で、会って、いろいろお茶しながら喋ってたら、すっごいいっぱい提案してくれたんですよ。



壁に限らず、お店の内装について?



はい。テーブルを置いたらどうですかとか、四つテーブル置いて、こう人が通れるようにしてみたいな。
(装丁がきれいな歌集などは特に)きれいな本だから、テーブルの上に面出して置くとかいいんじゃないですかみたいな。







あ、それでオープン当初はテーブルがあって、いまおっしゃったみたいに歌集とかの書籍が面出しで陳列されてたんですね。
てか、それを聞いて、池上さんはどう思ったんですか?



私は昔ながらの古本屋さんのイメージやったんで、「棚と本さえあれば本屋できるんで」とか言ってて。
でも、たしかに詩集とか歌集とかは「装丁見せたいなあ」っていうのは言ってて、でもテーブルをメインするとかは考えてなかったんですけど。



考えてなかったけど、その人に乗っかるというか、その案、採用みたいな。



そんな感じで。
絨毯を敷いて靴を脱いでもらう


ちなみに、葉ね文庫の床は絨毯が敷かれ、入店前に靴を脱ぐシステムになっている。
それを提案したのもKanataniさんだった。



Kanataniさん、内装に関していろいろ詳しかったんですよ。
海外の本屋とかもよく行ってて(その事例もいろいろ教えてくれて)、床にカーペット敷いてたら音が吸収されていいですよとか。



なるほど。そこから靴を脱ぐルールができたんですね。



当初は、絨毯を敷いてホテルみたいに靴のまま入ってもらう予定やったんですよ。でも、そのオープン直前に私が体調を崩して、オープンの時まではずっと靴脱いでたんですよね。あの、ゴロゴロしたいから。
で、オープンしたら土足で行こうと思ってたけど、なんかもう疲れてるから、とにかくいつでも寝っ転がれるようにしたくて(笑)。すごいリスキーやけど靴脱いでもらおうと思って。



たしかに、土足厳禁にすることで手間がひとつ増えるから、入店のハードルが少し高くなりますよね。


けど、「入ってくれへんかもやけどそこは賭けで、あかんかったら途中で変えれるし」と思って靴脱ぎシステムを導入したわけだけど、たいした問題にはならなかった。
みんな意外と素直に従ってくれた。



あと埃とかも絨毯が吸ってくれるから、掃除しやすくて。



なるほど。あとは、靴脱ぐことで、ちょっとくつろぎやすくもなりますしね。



うん。そんな感じでKanataniさんがいろいろ提案してくれて、それでバーッてどんなイメージにするかが一瞬で描けたんですよ。
それで、ピューって壁の絵も描いてくれて、なんかいける!と思って。「この本屋、いける!」って(笑)。



あ、自分の中でね(笑)。
不安ももちろんあるけど、意外とこれいけるんちゃうみたいな手応えが。



そう。なんか新しい!と思って。まあ、手応えあるかどうかわからんけど、面白いなと思って。一瞬で別世界に入るような空間が作れたらいいなと思い始めて。
それまで棚と本だけでいいと思ってたのに(笑)
IT、WEB業界でバリバリ働いていた池上さんが本屋さんを開店させるまで


池上さんは葉ね文庫をオープンさせたときから、本屋と並行して会社員としての仕事もしている。
会社員をしながら本屋さんをしているといってもいいかもしれない。
ちなみに、本業はWEB解析の仕事で、いわゆるWEBマーケティングの分野の業務を手がけている。
どうしてその道に進んだのかを伺った時に出てきたのが、阪神大震災の話だった。
手に職をつける必要性に迫られ、大学進学ではなく情報処理の専門学校へ


当時一浪していて、年が明け、いよいよ本格的な受験シーズンが到来し、その年に受ける大学の願書を書いていた次の日が震災だった。
幸い、ご家族はみなさん無事だったが、実家の工場は全焼してしまう。



なんもないし、なんか本当に裸足で、何も持たずにみたいな状況やったから、大学行くとかイメージできなくて。
ちょっと落ち着いてから、うちお姉ちゃんが神戸の北区に住んでて、そこは無事だったんですよ。いったんそこに家族みんな避難してて。



お姉ちゃんはそのとき、ご結婚されていたということですか?



そうなんですよ。で、そこにお世話になってて、そのうちお父さんの仕事仲間が二世帯住宅で住んでて「一世帯分空いてるから、来うへん」って言ってくれて、そこを間借りすることになって。
一応住む場所ができると、次どうしていくか考えていかなあかんなってなって、高校行ってとりあえず相談してみようと思って学校に行ったんです。


そのときに、担任ではないある先生に「あんた、そろそろ自分のために生きなさいよ」と言われる。
特別仲のよかった先生とかでもなかったんだけど突然そんなことを言われ、「どういう意味なんやろ?」と後からいろいろ考えたけど結局その先生がいった意味はわからなかった。
わからなかったけど、「まあ、とりあえずできる範囲で面白いことをやっていかなあかんな」みたいな気持ちになったという。



大学進学どころじゃなくなったから、とりあえず働かなと思ったんですけど、(手に職とかもなく当時は)なんの生産力もないから、いまの能力で働くっていうのはまず無理やなって思って。



じゃ、なにか専門性を身につけようと。



はい。それで情報処理の試験に合格するなら学費安くしたる、っていう専門学校があって。
安くなるならそこでいいかと思って、情報処理コースで勉強しました。



入学したのは同じ年(1995)の4月ってことですか?



そうです。引っ越しとか、いろいろ大変な時期だったんですけど、当時はネットとかもないし、高校でちょっと聞きかじった専門学校をまあ話聞きに行ってみたいな感じで、すぐに決めたみたいな。
藤井フミヤがPCで絵を描いていたのを見たのがきっかけ!?


そんな感じで専門学校で情報処理について学ぶことになったわけだが、当時の池上さんはパソコンの知識は全然なかった。
というか、その頃はほとんどの人がパソコンに詳しくなく(windows95が出たのが同じ年の8月)、インターネットユーザーなんて一部の人たちだけだった。



当時は周りでもPC持ってる人とかそんないませんでしたもんね。
池上さんはどこでパソコンに出会ったというか、興味を持ったんですか?



CMで藤井フミヤがパソコンで絵を描いていたんですよ。パソコンってそういうことできるんやな、ぐらいの知識で情報処理コースに入ったら、全然絵を描く授業とかなくて。
プログラミングのソースを追っかけるみたいな。まあ完全にグラフィックコースと間違って情報処理コースに入ったんですね(笑)。とっちらかったままプログラマーになって。



ただ、途中で挫折することもなく、いまこうして解析とかの仕事をされているってことは、そこはそんなに違和感がなくというか思ってたんと違うかったけど、取っつきはよかった感じやったんですね。



そう、なんかやってみたら面白くて。体を動かすとか、自分でこう手で生み出すような仕事は絶対無理やけど、プログラミングはできるかなってちょっと思って。


2年間、専門学校で情報処理について学んだあと、ソフトウェア開発会社に就職。
2年間働き、退職間際の3カ月間、並行して専門学校でWEBデザインについて学ぶ。



90年代後半くらいにちょっとインターネットが流行り出して、ミーハー的に私もいろいろ触ってて、そうこうするうちに自分でもホームページ作りたいなと思って、仕事がヒマなときとかにやってたんですけど、ちゃんとこれ習いたいなと思って学校行きだしたんですよ。



専門学校は1年間とかですか?



いや、3カ月だけで。ギリギリHTML書けるくらいの知識で。あと、イラストレーターとかPhotoshopをちょこっと触れるくらい。
で、その通ってた専門学校の人が「プログラマ志向のデザインできる人ほしかってん」「うちでバイトせえへん」って言ってくれて、アシスタントのアルバイトを始めて、授業に出る感じで。



働きながら学ぶみたいな。



そうそう。生徒さんよりも詳しくないかもやけど、もうわかった振りでアシスタント入って。怒られそうやけど(笑)。
でも、何ターンかやってるうちに完全に覚えて、それでデザインの仕事とかも取るようになって、フリーのwebデザイナーになっていくんですけど。
WEBデザイナーから課長に昇進!?


その後、就職したりフリーランスのWEBデザイナーとして活動したりしながらキャリアを積んでいき、プログラマ、WEBデザイナーとしての知識、技術を高めていく。
そんな池上さんの転機となったのが、2006年8月から働き出したソフトウェア開発会社のK社だった。



キャリアの中でもっとも長く在籍した会社でもあるんですけど、WEBデザイナーとして入社して、その後、広告の出稿とかマーケティングの仕事なんかも任されて。
そのときに、ウェブ解析士とかウェブ解析のツールとかも使い出して。



Googleのアナリティクスとかサーチコンソールとか。



そうそうそう。社長とかにプレゼンするときに、デザインだけじゃなくて数字で説明した方がやりやすいなと思って。



たしかに。めちゃわかります。



数字を根拠に、こういうデザインとか構成にしたらこれだけアクセス増えてるから、こうしましょとか。
ただ、途中からデザインから外れちゃって…。課長になって、現場の実務ができなくなって。


なんでも、直属の上司だった社長の息子が独立し、ソフトウェア事業部部長の席が空いた。
そこに誰が行くか問題が発生し、白羽の矢が立ったのが池上さんだったが、年齢やキャリア的に部長は無理だけど、じゃあ課長でみたいな感じで、急きょWEBデザイナーから課長に昇進することになる。



ほんとに、トコロテンのように押し出されるみたいにふんわり課長になって(笑)。



出世したのはよかったけど、管理職になるから現場の細々した作業をさせてもらえなくなるみたいな。



そうそう。なんか請求書のチェックとか、海外の会社との契約とか、もう本当に(自分に)向いてなさそうな仕事いっぱいやって。
経営企画会議とか出て、営業が動きやすいようにどうしたらいいのかみたいな(とかも手がけて)。



WEBデザイナーが本職の自分には向いてないぞ、と。



そんな感じで、ちょっとこれはもう無理かなってなって。


そんな感じで、「しんどいなあ」となっているときに、昔クリエイター育成専門スクールのアシスタント時代にいっしょに働いていた人から、「うちの会社来うへん?」ってお誘いを受ける。
その会社は化粧品メーカーで、WEBマーケターを探しているとのことだった。



それで社長に会って、その人のことを人間的にすごく好きになって、「行きます」みたいな。



そこはじゃあプログラマーでもWEBデザイナーでもなく、WEBマーケターとして、まさにアクセス解析とかしてたってことですね。



そうそう。そこからは顧客分析とか、なんかもう本当に分析メインで。あとは、広告の出稿とかもやってました。



広告はいわゆる一般的な広告ですか、そのリスティング(検索連動型広告)とかではなく?



リスティングは代理店を使ってて、その代理店コントロールするというか、レポート見て「ここどうなってるんですか」みたいなとか。
あとはアフィリエイト(成果報酬型広告)とか、記事広告とかも出してて、「アドエビス」っていうツールを使って全部検証してました。で、ダメなやつはもうガンガン削って、みたいな。効果検証しまくって。
…こんな話してて大丈夫ですか?(笑)



ぜんぜん問題ありませんよ。
楽しく、忙しかった化粧品メーカーでのWEBマーケティングの仕事


化粧品メーカーのWEBマーケティングの仕事はめちゃくちゃハードだった。
すっごい、忙しかった。けど、めちゃくちゃ楽しかった。



社長がこんな資格あるからみんな受けたらみたいな感じで、ウェブ解析士も取って。内容が普段やってることで、あんま勉強せんでも取れるやつだと思ったから取ったけど。



池上さん、ウェブ解析士の上級も取得されてますよね。



うん取りました。まあ、資格無くても解析の仕事できるし、逆に持っててもレポートとか見れない人とかもけっこういるんですけど、まあ客観的な評価として、持っておくと何かと便利かなみたいな。



お話聞いてると、その会社の社長さんも好きだし、WEBマーケの仕事も忙しいけど楽しいし、順調な感じだと思うんですけど、結果的にその会社を辞められるんですよね。



そうですね。辞めて、本屋さんやろう!ってなったんです。
一生続けられると思ったWEBマーケティングの仕事が一生続けられないかもと思った瞬間


もともと池上さんは、自分一人で完結する仕事がいいなと思っていた。
例えば、WEBデザインやプログラミングなども、一応ある程度は一人でできる仕事だった。それにプラスして、時代が変わっても、普遍的に続けられる仕事だとさらにいいなと考えた。



例えば、動きがあるサイト制作には欠かせなかった技術、Flashとか。「せっかく頑張ったのにもう使えない」みたいなものが多すぎて。
そうなったときに、ずっと蓄積できる仕事ってマーケティングやなと思って。しかもウェブ解析士は一人で基本できるし、自分の中で理想形やって思ってがんばってたんですけどね。



でもやっぱ、そんなWEBマーケも「なんか違う」となったわけですか?



ウェブ解析士の仲間とかと喋ってて、新しい技術が出たとき、すごい楽しそうなんですよ。
でも私は、「いや、もうなんも変わるな」って思って(笑)。



やっと不変のスキルみたいなの見つけたのに、またころころやり方変えたりするなよ、と。



そんな感じで、だから周りの人たちのそういう話聞いたときに、「絶対、勝たれへん」というか、「もうそのテンションには私なられへんわ」ってなって。





ずっとそこを自分でコントロールしながら、楽しいなと思ってやってきたけど、この先もずっと自分のプライベートな時間を割いて、いろいろ技術を調べていって更新して、そんなことできるのかなって急に…。
ピッタリの仕事見つけたと思ったけど、長くできる仕事じゃないかもなって思って。



楽しいし、やりがいもあるけど、本当に自分の天職なんか?みたいなことを、相対的に感じたわけですね。



はい、周りの人は、ずっとこれで行くやろうなと思って。そのぐらい楽しそうやって。
で、その人たちと一緒にやるのはすごく楽しくて、刺激にもなって、めちゃめちゃいい環境に最終的に収まったって思ったりもしたんですけど、急に「あれ?」ってなって。これ一番いい形なのに、ふんわり続けていけないって思ってる自分がいるなって。
そのときに初めて、「これまでずっと携わってきたITとかWEB業界を離れて何をやりたいか?」ということを考え、浮かび上がってきたのが本屋さんだった。
熟考の末とかではなく、そっこうで本屋さんが出てきた。で、実際に本屋さんをやるので会社を辞めることなる。
池上さんの半生part2に続く。


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