第1話から第3話まで、メキシコ出身のアンドレスさんが日本に来て、東吉野村に移住するまでを振り返ってもらった。
インタビュー時に、その折々の話をする際に文学の話もいろいろと出てきたんだけど、最終話でそのあたりをフォローします。
※写真:白石卓也
アイスランドのサガから日本の近代文学を読む

母国語であるスペイン語圏の作家はもとより、ドイツや日本の文学作品に親しんできたアンドレスさん。
もともとはどんなのが好きだったのかと聞くと、近代小説ではなく、アイスランドのサガ(saga)の物語が大好きだったという。
サガとは
サガ(アイスランド語: saga 複数形: sögur)は、おもに中世アイスランドで成立した古ノルド語(古北欧語、古アイスランド語とも)による散文作品群の総称。同時代に書かれたエッダ詩がゲルマン民族の神話や英雄伝説を題材にしているのに対し、サガはノルウェーやアイスランドで起きた出来事を題材にしたものが多いことに特徴があり、約200点が現代に伝わっている。
出典:wikipedia

作者が誰かもわからへん昔の物語みたいなやつかな。



そう、昔の物語。それは一番好きやった。それで、僕アイスランドに行ったことがある。



え、いつの時代?



大学卒業して、カフェ経営してたとき。
アイスランドでプロのサッカー選手に!?


第一話で書いたように、アンドレスさんは自身が経営するカフェで働いていたときに、文学をさらに追究するために大学院への進学を検討していた。
その候補のひとつがアイスランド大学で、大好きだったサガについて研究することだったそうで、そのファーストステップとして、アイスランドの保護区のボランティアをネットで見つけ、参加した。
それが2013年の8月のこと。



1カ月くらいの予定やったんで、その間カフェは知り合いにまかせて。



アイスランドに行った動機とボランティアやってたのはいいねんけど、そっからなんでサッカー選手になるの?



ボランティアやりながら、現地のサッカーチームについて調べた。子供の頃の夢がサッカー選手で、いろいろなチームに連絡してみたら、FRAM FC(フラム・レイキャヴィーク)ってとこがトレーニングに来てください!って返事くれて。



それでテストに合格して、入団みたいな?



そんな感じ。


進学先候補の大学探りに行って、あんた何してねんっていうつっこみはあるんだけど、なんでアンドレスさんがそんな行動に走ったのかというと、
- 大前提としてサッカー選手に憧れていた
- アイスランドのリーグはレベルが低い
- ワンチャン、プロサッカー選手になれるかも
みたいな流れがあったそうで。
まして、サッカーの本場である南米からやってきてるわけで、先方がそれなりに期待する可能性もゼロではなく、論より証拠で実行したらまんまと入団に漕ぎつけたというわけだ。



ちなみに、アンドレスさんのポジションは?



ゴールキーパーやってた。



そうなんや。試合は出たの?



出てない。当時、監督の息子がキーパーやってて。



え、そういう政治的な理由で出られへんかったん?(笑)



いや、そんなこともない。彼は上手かったし(笑)。僕はずっとベンチやったけど、すごく楽しかった。
でも、あるとき、やっぱり僕は文学の道を行くって決めて、メキシコに帰った。


それが2014年1月。チームに入ったのが9月だったので、4か月ちょっとの期間だったが。一応「プロサッカー選手」の夢をかなえた。
少額だったけど、給料も出ていたそうで。



でもさ、カフェお願いしてた友だちは、ちょっとアイスランドのボランティアに行ってくるって言って出ていったのに、半年間くらい帰ってこなかったらびっくりしてたんちゃうん?



うん、ちょっと伸びるって連絡していたけど、ちょっとって言ってたのにめちゃ長いって文句言われた(笑)。
芥川龍之介を読んで感じるボードレール


研究対象である三島由紀夫をはじめ、広く日本の文学に触れているアンドレスさん。
話をしているなかでいろいろな作家の名前があがったが、なかでもよく出てきたのが芥川龍之介だ。



日本の作家は西洋の作家にすごく影響受けてるけど、芥川も読んでるとボードレールの影響ちょっと見える。
例えば、芥川の『河童』っていう短編小説。



晩年の代表作ですね。



『河童』読んだら、絶対芥川めっちゃヨーロッパのこと勉強してたと思う。でもたぶんそのままだけじゃなくて、いろんなこと勉強して、自分の考えとちょっと混ぜて日本の残ってる文化、例えば「河童」とか。



芥川の作品は一応読んだことあるんですけど、ボードレールは10代のときに『悪の華』と『巴里の憂鬱』をパラパラ読んだ程度であまり詳しくないんですけど、さっきアンドレスさんが言った「ボードレールの影響」という部分というか、ボードレールの考えとかに関して少し教えてもらえますか。
と質問して返ってきたアンドレスさんの回答をまとめると、以下のようになる。
ボードレールは哲学的なコンセプトとして、otherness(異質なもの)について深く考えていた。
例えば、現代においてRemote (遼遠) な村とか部落とかに住んでる人たちは、以前は「Remoteに自分たちはいる」という認識はそれほどなかったと思う。しかし近代になり、Center (パリや東京とか、政権のある都市)は遼遠のコンセプトやmarginal(縁、境界にあるさま)のコンセプトなどを作ってきた。
そして、それは国家という概念を創造するために、Centerが村とか部落とかから民間伝承を取り上げ、重要でないと考えていたものを捨てた。 modernity(近代)になってから、村とか部落とかの存在はCenterのPerspective(見方)で作ったことになった。そしてCenterこそが、「文化」と「アイデンティティ」を生み出す中心である。
この視点を持って、例えばインタビュー中にも名前があがった作品のひとつである芥川龍之介の「蜜柑」を読むとする。
「蜜柑」の簡単なあらすじを説明すると、憂鬱な気持ちで列車に乗り込んだ「私」の目の前に、手に風呂敷を持ったみすぼらしい田舎娘(13、4歳)がやってきて目の前に坐る。
三等の切符で二等に乗り込んでいたり、トンネルがあるのに窓を開けた結果として煙が車内に入ってきたり、そうした少女の一つひとつの挙動に「私」はいらだちを募らせていく。
トンネルを抜け、列車が田舎の踏切にかかったところで、その近くで子ども三人が手を振っているのが見える(そこで主人公は、この少女が奉公に出されるのだと感得する)。
少女はその子どもたちに向かって、風呂敷から蜜柑を取り出し、窓から投げる。
※すごく短い作品で、青空文庫にもあるので、気になかった方は本文に当たってみて下さい。
>>青空文庫「蜜柑」



効率化を実現する列車はモダニティのシンボリズムじゃない? 主人公はその世界の住人だけど、その世界の外に別の世界(異郷みたいなところ)がある。
その世界は効率のために生きていしないし、感情があり(=機械のように無機質でない)、モダニティと違う合理で生きていると思う。



なるほど。ただ、奉公に出されるということは、その地方に住む子どもの家庭は貧しく、その貧しさゆえに、アンドレスさんというかボードレールがいう都市、モダニティの世界に行ってしまうわけですよね。



「蜜柑」のなかで描かれる、周辺の世界におった子どもたちは耐えた。つまり、Centerに集約される文化やアイデンティを守ったというか、そういうものとは対極にある存在として描かれていると思う。



アンドレスさんの言葉を借りると、Centerの世界に飲み込まれない、つまり「耐えた」けど、別の見方をすると、一体化してないからこそ周辺(都市部から見て)のその村は経済的にも貧しい。
その犠牲というか、「周辺の世界におった子どもたちは耐え」るために、子どもたちのお姉さんが奉公に出されたから、その視点でいうとCenterとRemote (遼遠) の中間というか、橋渡し的な役割も女の子は担っている、もしくはそのような歪みみたいなものがあって、初めてRemote は現状を維持できるみたいな。
この議論の良し悪しというか、結論はおいとくして、「中央」に集約されない「遼遠」に残る風習や文化にアンドレスさんは興味を持ち、作品を通じてそうしたものに触れたときに、マジックアリアリズムのようなものを感じるという。
宮本常一『忘れられた日本人』はマジックリアリズムの宝庫!?





小説じゃないけど、宮本常一の本読んだときも、マジックリアリズム感じた。



『忘れられた日本人』ですね。
昭和14年以来、日本全国をくまなく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した著者(1907‐81)が、文化を築き支えてきた伝承者=老人達がどのような環境に生きてきたかを、古老たち自身の語るライフヒストリーをまじえて生き生きと描く。辺境の地で黙々と生きる日本人の存在を歴史の舞台にうかびあがらせた宮本民俗学の代表作。
出典:Amazon
簡単にいうと、日本各地の名もなき人々から集めた話、地域ごとの生活に根づいた伝承・風習などが紹介されている本で、
同書に載っている、例えば、愛知県の山間にある村の古老たちが語るエピソードに出てくる
- 女性が月のものがあった際、ヒマヤとよばれる別部屋に入る
- 月のさわりが始まるとその部屋で寝起き、かまども別にして煮炊きする(いっしょに食べたのでは家の火がけがれるといって)
- 同様に、仏様へのお茶湯をあげることも禁止される
- ヒマヤに入っている時は男の下駄を履くのもダメ
- 腰巻は、日の当たるところでは干さず、日陰で干す
といった挿話を読んで、アンドレスさんはマジックリアリズムのようなものを感じたという。



それは確定していることで、本人たちは考えてそういう行動を取ってない。意味とか考えてなくて、動いている。



昔から風習としてあるから普通にやってる。



そう。でもそれは西洋的なロジックで考えたら、意味ない。



迷信というか、何やってんのって。科学的じゃないよと。



そう。だから、宮本のインタビューした人は、小説に絶対あってると思う。



ネタとしておもろいのあるやんけみたいな?



そう、そんな感じ。


アンドレスさんいわく、宮本常一がインタビューした挿話を読んで、日本人は「何、これ!」って大きな驚きはないというか、挿話自体は受け入れる。
一方で、南米人がガルシア・マルケスやルルフォの小説を読んでも、西洋の人たちのように常識的には理屈があわないエピソードが、特に気には留めない。



つまり、西洋の人たちがマルケスの小説読んで「マジックリアリズム!」って驚いたりしてるけど、それは南米の人にとってはそんなびっくりするようなことじゃなくて、同様のことが日本にもあるんちゃうん? それ小説に導入したらおもろいのに、みたいな?



うん。西洋から見たら不思議で、マジックリアリズム的な効果いけると思う。
メキシコ人のアンドレスさんに南米文学について聞いてみた


これまでアンドレスさんの研究対象である日本文学を中心に話を聞いたけど、せっかくなんで南米文学についてもいろいろ訊いてみた。



メキシコで、日本でいう夏目漱石とか三島由紀夫とかその辺、太宰治とか芥川とか。いわゆる有名な作家、国の作家みたいな、それメキシコでいうと誰なんですか。カルロス・フエンテス?



たぶんカルロス・フエンテスと、オクタビオ・パス。フアン・ルルフォ。あと、エミリオ・パチェーコ。



最後の人はちょっとわからんかった。



エミリオ・パチェーコは日本の俳句めっちゃ好きやったから、松尾芭蕉の翻訳とかもしてる。
イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』はダメ?


南米文学の金字塔というか、もっとも有名な作品のひとつなのがガルシア・マルケスの『百年の孤独』。
その再来と謳われ、スペイン語圏で話題となったのがイザベル・アジェンデの『精霊たちの家』で、池澤夏樹の世界文学全集で読んだんだけど、すごく面白かった。



でも、最近『ラテンアメリカ文学入門 – ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで』って新書を読んだら、ガルシア・マルケスがちゃんとした文学の正統としたら、もっと稚拙な素人が書いた作品だって。



そう思う。



ただ、それまでは一部の知識人とかが主な読者だったけど、徐々に識字率が上がって、大衆も文学を読むようになって、その層にはちょうどよかった的なことも書かれてて、だから爆発的に売れたと。



そんな感じだと思う。でも、正統な文学史からは外れてて、いまの人とかは、ほとんどイザベル・アジェンデの名前とか忘れてると思う。
近年のスペイン語圏の気になる作家


近年の南米文学の作家だとロベルト・ボラーニョが有名だが、逆にいうとそれくらいしかわからんのでおすすめを聞いてみると、



カルロス・モンシバイス。10年くらい前に死んじゃったけど。メキシコの人で、めちゃ面白い。あと好きなのは、バルトラ。



全然わからん。



バルトラは、いろんな村についての話を書いてる。でも、それだけじゃなくて、今年はメキシコの漫画と日本の漫画についての本出した。めっちゃもうおじいさんけど、面白い。
まだ知らない小説家いっぱいと思う。ラテンアメリカの。



日本に翻訳されるのってほんま一部の有名な人やからね。それを紹介してあげたら? 吉野村に限らずやけど。



それやりたい。紹介したい。



それをありがたがる分母がどれだけいるかって問題はあるかもやけど。ラテンメリカ文学がってことより、本読む人自体が相対的に少ないから。



でもそう。例えば文化センターみたいなところ作ったら、誰も知ってない小説家とか映画を作ってる人とか紹介したい。
メキシコのもさっき言ってた小説家を日本人にとか、日本のマイナーな小説家もメキシコの人に紹介したい。ラテンアメリカにも知られてない作家いっぱいいるし、日本もハルキ・ムラカミだけじゃない。



あとは、興味もっても翻訳されてなかったら現実的に読めないから、その問題がクリアになったらいいんだけどね。
ご近所さんのルチャリブロ(人文系私設図書館)


第三話で吉村虎太郎の墓のシーンが出てきたが、その場所からすぐのところにあるのが、人文系私設図書館「ルチャリブロ」だ。
※上の写真の奥に見える古民家。手間に立てかけられているのは施設の看板。
吉村虎太郎の墓に向かう際、アンドレスさんが「その近くに図書館ある。今日開いてるかわからんけど」ってことを言ってたので、じゃ、行ってみようということでお邪魔させていただいた。
ルチャリブロさんを訪問


ルチャリブロとは
人文系私設図書館ルチャ・リブロは、図書館、パブリック・スペース、研究センターなどを内包する大げさにいえば「人文知の拠点」です。蔵書は歴史や文学、思想、サブカルチャーといった人文系の本を中心としており、「役に立つ・立たない」といった議論では揺れ動かない一点を常に意識しています。話をどんどん先に進めるというよりも、はじまりに立ち戻るような、そしてその始点自体が拠って立つところをも疑問視するような、そんなところです。
川のせせらぎを聴きながら、ゆっくり本を読んでみませんか?
出典:「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」とはなにか
青木真兵さん・海青子さんご夫妻が自宅の一部を開放して営む私設図書館で、アンドレスさんは東吉野に引っ越してきて以降、何度か訪問したことがあった。
そして、アンドレスさんには、ひとつの思惑があった。
WEBマガジンへの執筆を依頼


これも以前触れたが、東吉野村のふるさと協力隊の活動の一環として、村の魅力を発信する雑誌をつくるのがアンドレスさんの目標のひとつだ。
というわけで、撮影で訪れたこの日、アンドレスさんは青木さんに構想を伝え、エッセイ or 小説の執筆依頼をしていた。



いろいろお話できてよかった。執筆もOKもらった。



よかったですね。てか、家の近くにルチャリブロさんがあるのはすごく素敵なことだし、いい感じで雑誌づくりを協力してくれる人の輪も広がっていくといいですね。
第三話でご紹介したアンドレスさんが編集を務めるWEBマガジン『ときどき 百姓』で、青木海青子さんの短編小説『ひなかの蛍』が掲載される予定。
お楽しみに!
さいごに


本当はインタビューを通じて、アンドレスさんともっとたくさん小説の話をしたんだけど、今ですらけっこう長くなっているので、今回載せた分くらいでおいときます。
最後に1点だけ、本・小説関連で追記しておくと、アンドレスさんも小説を書いていたのは以前に触れたが、大学関連のコンテストで入賞して、短編集を上梓している。


2018年に出版した短編集で、タイトルを『撫子』(なでしこ)という。



花の意味についての考えた短編小説で、ちょっとホラーみたいなストーリーを書いた。



各短編に添えられているイラストも印象的ですね。



各短編に友人のSusana del Rosario(@hagoflores )がイラストレーターが花のイラストを描いてくれた。
3年前、この作品でメキシコの国の機関から「FONCA」という奨学金もらった。



お、そうなんですね! 雑誌もだけど、小説も発表されるの楽しみにしてますね。



ありがとうございます!
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